
ピーター・バート
米バラエティ誌 編集長。ウォール・ストリート・ジャーナル紙とニューヨーク・タイムス紙のレポーターを経て、1967年にパラマウント・ピクチャーズへ。『ゴッドファーザー』『ペーパー・ムーン』『ローズマリーの赤ちゃん』など数々の名作のプロデュースに関わり、77年、独自の製作会社を設立。そこで『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などの作品をプロデュースする。MGM/UAの上席副社長を経て、89年よりバラエティ誌の編集長兼副社長を務める。
米バラエティ誌 編集長。ウォール・ストリート・ジャーナル紙とニューヨーク・タイムス紙のレポーターを経て、1967年にパラマウント・ピクチャーズへ。『ゴッドファーザー』『ペーパー・ムーン』『ローズマリーの赤ちゃん』など数々の名作のプロデュースに関わり、77年、独自の製作会社を設立。そこで『郵便配達は二度ベルを鳴らす』などの作品をプロデュースする。MGM/UAの上席副社長を経て、89年よりバラエティ誌の編集長兼副社長を務める。
暗い話題ばかりを狭い範囲で扱う映画界
毎年のことだが、オスカーに投票する時期になると、アカデミー会員たちは、その年は映画豊作の年だったか、はたまた不作の年だったのかを論じ始める。
私としてはこう言いたい——そんなことを論じること自体が無意味だ。
2007年に公開された映画は、才能と勇気を見せ付けるものだった。とはいえ、こういった作品には、次の2点が欠けている。展望と希望、だ。妙に狭い範囲のテーマを扱った作品ばかりだった。その世界観はほとんど異常と言っていいほど暗い。
ちょうど70年前の運命的な年を振り返ってみよう。1938年という年は、世界中で不吉なことばかりが起こっていた。アメリカの経済は底をついていたし、ヒトラーはヨーロッパ中に手を伸ばしていた。
ところが、ハリウッドのスタジオでは、驚くべき現象が起こっていた。この世の終わりが近いと思われるようなその時期に、ハリウッドのフィルムメーカーたちは、本当に広範囲のテーマで映画を作っていたのだ。それも、歴史に残る名作の数々を。
その年に作られた映画は、時代ドラマ『風と共に去りぬ』、ファンタジー映画『オズの魔法使』、西部劇の『幌馬車』、感動ドラマ『チップス先生さようなら』、グレタ・ガルボの気の利いた『ニノチカ』、風刺コメディ『スミス都へ行く』、実社会を描いた『ゴールデン・ボーイ』、女性ファンを対象にした “The Women”、ティーン向けコメディの “Babies in Arms” (ジュディ・ガーランドとミッキー・ルーニー主演だ。あきれたことに。)、そして戦争ドラマの 『ガンガ・ディン』。
このような作品はすべてスタジオを経営する怪物たちが仕切っていた。ジャック・ワーナー、ハリー・コーン、ルイス・B・メイヤー(アーヴィング・サルバーグは1936年に亡くなっている)。そしてその下で君臨している監督たちの一群が、これまた本領を発揮していた。(ウィリアム・)ワイラーや(ジョン・)フォード、(ハワード・)ホークス、(ジョージ・)スティーヴンス、そして(フランク・)キャプラといった監督たちだ。
同様に、スタジオの親分たちに育てられていたスター制度が、変わった特徴を示し始めていた。ハンフリー・ボガート、マレーネ・ディートリッヒ、ジミー(ジェームス)・スチュアート、ジョーン・クロフォード、ジョン・ウェインなどなど。
大スターたちはしょっちゅう出演作品のことで所属スタジオの親分たちと揉めては、停職処分を受けていた。役柄や脚本の内容に憤慨し、主張していたからだ。フィルムメーカーたちもしかり。スタジオがコメディやスター主体の作品を望んでいたのに対し、フィルムメーカーたちは、例のごとく、世相を反映した深刻な映画を求めていた。
解決法は、もちろん、交換条件だ。素晴らしい交換が行われた。フィルムメーカーたちは、自分たちの好きな映画を撮る代わりに、スタジオはコマーシャル映画の製造工程を動かし続けた。スタジオは作品を仕上げるための最終決定権を持ち、互いにハッピーエンドを迎えることが出来た。
そして、結果をみてみると、たとえあの70年も前の時代には取るに足らないように思えた作品でさえ、いまもなお共鳴し続けている。『愛の勝利』、『コンドル』、『あきれたサーカス』(原題は"Young Can't Cheat an Honest Man"——W.C.フィールズ以外に誰がこんな題名を付けるだろう?)
なぜこんなに盛りだくさんの結果になっているのだろうか? 理由の一つとしては、スタジオの制度が絶頂期であったということがあるだろう。さらには、テッド・セネットが著書 “Hollywood’s Golden Year”(ハリウッド黄金期)で書いているように、あの頃の映画は「戦争という翳りが忍び寄る直前に、明るく照らされた最後の純粋さ、を反映していた」のかも知れない。『オズの魔法使』が公開された頃、まさに、ナチスの兵隊たちが出動し、Uボートが北大西洋に出現していたのだ。
スタジオ制度が戻ってくることはないし、芸術と商業の絶妙なバランスが取り戻されることも、もはやない。
さて、これが、私が2007年の映画を考える際、あらかじめ考えておくことである。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のような作品は絶賛されるであろう。ただ、血の他にも、もうちょっと笑いや情感を含ませて欲しかったのだ。
私としてはこう言いたい——そんなことを論じること自体が無意味だ。
2007年に公開された映画は、才能と勇気を見せ付けるものだった。とはいえ、こういった作品には、次の2点が欠けている。展望と希望、だ。妙に狭い範囲のテーマを扱った作品ばかりだった。その世界観はほとんど異常と言っていいほど暗い。
ちょうど70年前の運命的な年を振り返ってみよう。1938年という年は、世界中で不吉なことばかりが起こっていた。アメリカの経済は底をついていたし、ヒトラーはヨーロッパ中に手を伸ばしていた。
ところが、ハリウッドのスタジオでは、驚くべき現象が起こっていた。この世の終わりが近いと思われるようなその時期に、ハリウッドのフィルムメーカーたちは、本当に広範囲のテーマで映画を作っていたのだ。それも、歴史に残る名作の数々を。
その年に作られた映画は、時代ドラマ『風と共に去りぬ』、ファンタジー映画『オズの魔法使』、西部劇の『幌馬車』、感動ドラマ『チップス先生さようなら』、グレタ・ガルボの気の利いた『ニノチカ』、風刺コメディ『スミス都へ行く』、実社会を描いた『ゴールデン・ボーイ』、女性ファンを対象にした “The Women”、ティーン向けコメディの “Babies in Arms” (ジュディ・ガーランドとミッキー・ルーニー主演だ。あきれたことに。)、そして戦争ドラマの 『ガンガ・ディン』。
このような作品はすべてスタジオを経営する怪物たちが仕切っていた。ジャック・ワーナー、ハリー・コーン、ルイス・B・メイヤー(アーヴィング・サルバーグは1936年に亡くなっている)。そしてその下で君臨している監督たちの一群が、これまた本領を発揮していた。(ウィリアム・)ワイラーや(ジョン・)フォード、(ハワード・)ホークス、(ジョージ・)スティーヴンス、そして(フランク・)キャプラといった監督たちだ。
同様に、スタジオの親分たちに育てられていたスター制度が、変わった特徴を示し始めていた。ハンフリー・ボガート、マレーネ・ディートリッヒ、ジミー(ジェームス)・スチュアート、ジョーン・クロフォード、ジョン・ウェインなどなど。
大スターたちはしょっちゅう出演作品のことで所属スタジオの親分たちと揉めては、停職処分を受けていた。役柄や脚本の内容に憤慨し、主張していたからだ。フィルムメーカーたちもしかり。スタジオがコメディやスター主体の作品を望んでいたのに対し、フィルムメーカーたちは、例のごとく、世相を反映した深刻な映画を求めていた。
解決法は、もちろん、交換条件だ。素晴らしい交換が行われた。フィルムメーカーたちは、自分たちの好きな映画を撮る代わりに、スタジオはコマーシャル映画の製造工程を動かし続けた。スタジオは作品を仕上げるための最終決定権を持ち、互いにハッピーエンドを迎えることが出来た。
そして、結果をみてみると、たとえあの70年も前の時代には取るに足らないように思えた作品でさえ、いまもなお共鳴し続けている。『愛の勝利』、『コンドル』、『あきれたサーカス』(原題は"Young Can't Cheat an Honest Man"——W.C.フィールズ以外に誰がこんな題名を付けるだろう?)
なぜこんなに盛りだくさんの結果になっているのだろうか? 理由の一つとしては、スタジオの制度が絶頂期であったということがあるだろう。さらには、テッド・セネットが著書 “Hollywood’s Golden Year”(ハリウッド黄金期)で書いているように、あの頃の映画は「戦争という翳りが忍び寄る直前に、明るく照らされた最後の純粋さ、を反映していた」のかも知れない。『オズの魔法使』が公開された頃、まさに、ナチスの兵隊たちが出動し、Uボートが北大西洋に出現していたのだ。
スタジオ制度が戻ってくることはないし、芸術と商業の絶妙なバランスが取り戻されることも、もはやない。
さて、これが、私が2007年の映画を考える際、あらかじめ考えておくことである。『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のような作品は絶賛されるであろう。ただ、血の他にも、もうちょっと笑いや情感を含ませて欲しかったのだ。






















