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カンヌ映画祭の歴史

2008/05/14

誕生

 今年で61回目を迎えるカンヌ映画祭、その誕生の経緯は1930年代に遡る。当時よりヴェネチアで行われている世界の芸術の祭典ビエンナーレで、1932年に世界で最初の国際的な映画の祭典がスタートしたが、後にファシスト政権の台頭により、自由な芸術の祭典とは程遠いものに姿を変えた。この状態に危機感を抱いたフィリップ・エルランジェ(作家、歴史学者にして外交官)が、かつてのヴェネチアに匹敵するような国際映画祭をフランスで開催することを提唱、フランス政府に働きかけた。開催地は当初フランス有数の保養地ビアリッツなども候補にあがっていたが、太陽の光が燦燦とふり注ぐ、コート・ダジュールに面した小さな街カンヌが選ばれた。
 記念すべき第1回は、映画の父ルイ・リュミエールを委員長に迎えて1939年に行われるはずだったが、第二次世界大戦勃発により実現には至らなかった。1946年9月20日、戦後間もなくまだ設備も十分ではなかったがようやく第1回映画祭の実現にこぎつけた。場所はカジノで開催された。この年のグランプリはコンペ枠から11もの作品に贈られた。

グランプリとパルムドール(金の棕櫚)

フランシス・フォード・コッポラと今村昌平
フランシス・フォード・コッポラと今村昌平
 カンヌ映画祭では、その年によって特別な賞が設けられたりするうえに、最高賞の呼称がグランプリとなったりパルムドールとなったり、時代によって呼称が変わっている。ややこしいが、1946年から1954年まではグランプリ、1955年から1963年までがパルムドール、1964年から1974年までがグランプリ、1975年以降はパルムドールとなっている。現在は最高賞がパルムドール、次点がグランプリとなっている。
 過去に2度パルムドール(最高賞)を獲得した監督は現在5組のみで、フランシス・フォード・コッポラ(1974年『カンバセーション…盗聴…』と1979年『地獄の黙示録』)、ビレ・アウグスト(1988年『ペレ』と1992年『愛の風景』)今村昌平(1983年『楢山節考』と1997年『うなぎ』)、エミール・クストリッツァ(1985年『パパは、出張中!』と1995年『アンダーグラウンド』)、リュック・ダルデンヌジャン=ピエール・ダルデンヌ兄弟(1999年『ロゼッタ』と2005年『ある子供

多彩なプログラム

(左から)ヴィム・ヴェンダース、北野武、アッバス・キアロスタミ、ウォルター・サレス。2007年映画祭、“Chacun son cinéma”にて
(左から)ヴィム・ヴェンダース、北野武、アッバス・キアロスタミ、ウォルター・サレス。2007年映画祭、“Chacun son cinéma”にて
 1959年にはフィルムマーケットが併設され、現在では世界3大フィルムマーケットの一つにあげられる、最も重要な国際マーケットの地位を確立している。
 映画祭が選出する公式上映とは別に、1962年には批評家週間、1969年には監督週間がスタートする。以来、公式上映と合わせて、カンヌ映画祭を世界最大たらしめる特別なプログラムとなっている。
 1978年にはジル・ジャコブにより「ある視点部門」と新人監督に贈られるカメラ・ドール賞が設置された。
 1991年には、映画監督によるシネマレッスンがスタートする。普段は手の届かないところにいる巨匠たちに、映画制作に関心を持つ観客が直接対話できる貴重な場所となっている。今年の先生はタランティーノ
 2007年には60回目を記念して”Chacun son cinéma”が企画された。世界の名だたる映画監督たちが映画館をテーマに制作した短編33本集めた。ポランスキークローネンバーグカウリスマキリンチヴェンダースコーエン兄弟ほか、日本からは北野武が参加した。
 2008年はデイヴィッド・リーン生誕100年の記念上映や、川喜多記念映画文化財団の創設者である川喜多かしこの生誕100年の記念事業が平行して行われるほか、ワーナー・ブラザース85周年を記念した上映会などが行われる。

ヌーヴェルヴァーグ

フランソワ・トリュフォー
フランソワ・トリュフォー
 1951年より開催時期が秋から春になったカンヌ映画祭だが、その歴史にはヌーヴェルヴァーグとの切っても切れない縁がある。1968年、ヨーロッパ中に五月革命の嵐が吹き荒れる中、パリでも連日、学生や文化人による激しい抗議行動が繰り広げられていた。この社会情勢を受け、フランソワ・トリュフォージャン=リュック・ゴダールクロード・ルルーシュルイ・マルジャン=ピエール・レオーらヌーヴェルヴァーグの若い映画人らが中心となって映画祭中止を要請し、事務局側は中止を余儀なくされた(この事件の予兆としては、この年の2月にシネマテークの創始者であるアンリ・ラングロワがシネマテーク事務局長を解任されるという事件がおこり、これに抗議する若者たちの中に、彼らヌーヴェルヴァーグの面々がいた)。
 2008年はこの年から40年目の記念の年にあたり、当時渦中で上映に至らなかった作品の一部を40年越しに上映するとともに、歴史的意味を振り返る。

カンヌと日本人

黒沢清と河瀬直美
黒沢清と河瀬直美
 日本映画界とカンヌも長年の関係を築いてきており、中にはカンヌ常連とも言える日本人監督もいる。
 日本人監督初のグランプリは1954年の衣笠貞之助地獄門』。また世界の黒澤明は1980年『』『八月の狂詩曲』『まあだだよ』が特別招待作品として上映された。前述の今村昌平は『楢山節考』と『うなぎ』で2度のパルムドール。2003年是枝裕和の『誰も知らない』で主演の柳楽優弥が当時14才でカンヌ史上最年少での主演男優賞受賞となった。
 記憶に新しいところでは、昨年『殯の森』(2003年の『沙羅双樹』に続いて2度目のコンペ)でグランプリを受賞した河瀬直美は、その10年前の1997年監督週間に出品された初長編監督作品『萌の朱雀』でカメラドールを受賞している。彼女もカンヌ映画祭と縁の深い監督の一人だろう。
今年のある視点部門にエントリーしている『トウキョウソナタ』の黒沢清も1999年監督週間の『カリスマ』以来、カンヌの常連といっていいだろう。
 また今年で40回目を数える監督週間に、過去に数々の作品を出品してきた大島渚は特筆すべき存在である。
 2004年に押井守の『イノセンス』が、結果的に受賞には至らなかったものの、アニメーション映画としては初のコンペ出品となったことも、現在世界中が注目する日本のアニメーションの映画的レベルの高さを証明するには十分だっただろう。

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