●原題:I'm Not There/2007年/アメリカ=ドイツ/ドルビーSRD/スコープサイズ/136分/4月26日より日本公開
●配給:ハピネット/デスペラード
●配給:ハピネット/デスペラード
難解にして奇異、キュビズムの手法を真似るように“ボブ・ディラン”として知られる男の人生を映画的に描き出そうとした野心作なのだが、できあがったものは、どこかのマセた音楽学専攻の大学院生が、自分の憧れる創造力豊かな音楽家を作り上げてしまった、という趣のものになっている。6人の俳優を配し、さまざまな映像スタイルを駆使して、稀代の吟遊詩人の人生とキャリアに見る多くの要素を描き出そうという手法的には、大胆極まりない作品なのだが、何しろ、その根底にある、とらえどころのない“ゴースト”同様、物語性や話の軸となるものがない。頼みの綱は、ディランのファンと60年代のポップ・カルチャー好きが観客となってくれることなのだが、メインストリームである一般的な人々の興味を喚起しろというのは無理な話だろう。
ディラン自身が承認し、オリジナル楽曲使用も許された、初めての伝記映画
ボブ・ディラン自身が、初めて本人の伝記映画製作を承認し、彼の歌がオリジナルのまま、そしてカバーとしても使用可能となったことの背景に、伝記ものに対するトッド・ヘインズ監督の型破りなアプローチがあったことは否定できない。ディラン本人の映画を選ぶテイストは、長年にわたり疑問視されることが多かったが、『アイム・ノット・ゼア』が“ボブ・ディランの頭の中”よりは、遥かに優れた作品であることだけは確かだ。
時間軸があちらこちらと飛び回り、さまざまな側面を見せるディランの人格を、20世紀で最も印象に残るヒット曲のコレクションとともに解き明かそうとする本作は、退屈でもなければ、イライラするわけでもない。現に、若き日のウディ・ガスリーに憧れるディランを、11才の黒人の少年に演じさせたり、ニューポートのコンサートでディランが初めてエレキギターを持ったときの衝撃を、彼や彼のバンドがフォークに心酔している観客たちに対し、文字通りマシンガンをぶっ放す映像で表現したり、といったヘインズが仕掛ける大胆な試みは、意外なほどにうまく行っている。全体を通して行われている「さあ、何でも試してみよう」というアプローチも、穏やかな調子で切り出されていることから、逆に観客に「先入観を捨て、ヘインズの指し示す方向に進んでみようじゃないか」と鼓舞することにも成功している。
時間軸があちらこちらと飛び回り、さまざまな側面を見せるディランの人格を、20世紀で最も印象に残るヒット曲のコレクションとともに解き明かそうとする本作は、退屈でもなければ、イライラするわけでもない。現に、若き日のウディ・ガスリーに憧れるディランを、11才の黒人の少年に演じさせたり、ニューポートのコンサートでディランが初めてエレキギターを持ったときの衝撃を、彼や彼のバンドがフォークに心酔している観客たちに対し、文字通りマシンガンをぶっ放す映像で表現したり、といったヘインズが仕掛ける大胆な試みは、意外なほどにうまく行っている。全体を通して行われている「さあ、何でも試してみよう」というアプローチも、穏やかな調子で切り出されていることから、逆に観客に「先入観を捨て、ヘインズの指し示す方向に進んでみようじゃないか」と鼓舞することにも成功している。
魅力いっぱいの少年期、音楽シーンの旋風となる青年期、
レジャー扮する反抗期
そのような偏見にとらわれない姿勢は、最初の“ディラン”が登場することで、ますます拍車がかけられる。実際、この配役に最も上映時間が割かれていることも事実だ。1959年当時、30年代のスタイルさながらに汽車に乗り、ギターをかき鳴らす少年を、若きマーカス・カール・フランクリンが魅力いっぱい、まっすぐに演じている。アルチュール・ランボーを名乗らないときは、自分のことをガスリーと重ね合わせる小さな“ウッディ”は、どこに旅しても、物まねの才能でみんなの人気者になってしまう。だが、ある時少年は聡明な女性から激しく非難される。その女性は少年に「自分の時代を生きなさい」とたしなめるのだ。
少年は目を覚まし、“ジャック”(クリスチャン・ベール)という青年に姿を変え、グリニッジ・ビレッジに現れたかと思うと、「時代は変る」や初期の珠玉の名作を引っさげ進歩的な音楽シーンに嵐を巻き起こす。
この時点から、作品はいい方向と悪い方向に、バラバラに進み始めてしまう。『一握りの砂』という題名の架空のハリウッド映画で、ディランらしき人物を演じる気難しい役者“ロビー”に扮するのはヒース・レジャー。マーティン・スコセッシの『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』を思わせるようなドキュメンタリー・タッチの映像に切り替わり、アリス・フェビアン(ジュリアン・ムーア)など、以前ディランと親しかった人物たちとのインタビューが行われていく。ドキュメンタリー映像は、ケネディ大統領暗殺の直後、なぜジャックが反体制運動から手を引いてしまったのかという問題を浮き彫りにしようと試みている。時を同じくして、ロビーは画家クレア(シャルロット・ゲンズブール)に出会っていく。
“I Want You”の旋律にあわせ、クレアといい仲になっていくロビーは、バイクをとりに行くという理由でクレアを田舎町に連れて行く。このシーンはなかなか魅力的にできあがっている。その後、2人は結婚をし、二児を授かるのだ。
少年は目を覚まし、“ジャック”(クリスチャン・ベール)という青年に姿を変え、グリニッジ・ビレッジに現れたかと思うと、「時代は変る」や初期の珠玉の名作を引っさげ進歩的な音楽シーンに嵐を巻き起こす。
この時点から、作品はいい方向と悪い方向に、バラバラに進み始めてしまう。『一握りの砂』という題名の架空のハリウッド映画で、ディランらしき人物を演じる気難しい役者“ロビー”に扮するのはヒース・レジャー。マーティン・スコセッシの『ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム』を思わせるようなドキュメンタリー・タッチの映像に切り替わり、アリス・フェビアン(ジュリアン・ムーア)など、以前ディランと親しかった人物たちとのインタビューが行われていく。ドキュメンタリー映像は、ケネディ大統領暗殺の直後、なぜジャックが反体制運動から手を引いてしまったのかという問題を浮き彫りにしようと試みている。時を同じくして、ロビーは画家クレア(シャルロット・ゲンズブール)に出会っていく。
“I Want You”の旋律にあわせ、クレアといい仲になっていくロビーは、バイクをとりに行くという理由でクレアを田舎町に連れて行く。このシーンはなかなか魅力的にできあがっている。その後、2人は結婚をし、二児を授かるのだ。
もっともディラン自身に近いブランシェットの演技には、衝撃すら走る
上映開始後40分ほどのところで、物語は、突然激しく躍動し始める。激変とされているニュー・イングランド・ジャズ&フォーク・フェスティバルでの一幕である。音楽が突然プラグで接続したエレキ音になるだけでなく、ここでの中心的人物“ジュード”は、女優ケイト・ブランシェットによって演じられていくのである。痩せこけ、その目を大きなサングラスで隠し、ちょうど“Don’t Look Back”の頃のディランそのものともいえるような、カールのかかったモップのような髪形をしたブランシェットは、まさにハマリ役。登場シーンには、衝撃すら走る。おどおどしたような動き、油断のない目つき、素っ気なく、くぐもったような話し方、そして時折見せる鮮烈な才能、それら全てを不思議なほど自然にこなしている。これまで知られている中で、もっともディラン自身に近づいた演技といえる。
ブランシェットの演技は、衝撃の度合いという意味でも、長さの意味でも、この作品における決定的な転換点となっている。その演技とともに物語が進み、ブランシェットの演じる人物は薬と妄想に取り付かれ、ますます狂気を募らせていく。その一方、精神的な深みだけを追いかけるマンネリズムに頼る姿が明らかになっていく。それにしても、このブランシェットの配役と演技は、まさに大胆不敵な一手だったと言える。ボブ・ディランとキャサリン・ヘップバーンの両方になりきるようリクエストを受けた俳優は、地球上で彼女だけだろう。そして、その両方を見事に演じきっている。
ジュードのイギリス演奏ツアー、そしてそれに関連する出来事はまさに、本作の核であり、ハイライトである。アレン・ギンズバーグやビートルズといった著名人との出会いも用意されている(「ビートルズがやって来る/ヤァヤァヤァ!」のスタイルを踏襲したギャグも、この一節に放り込まれている)。ブランシェットの存在に加え、才気ある映像で知られるヘインズと撮影監督エドワード・ラックマンが構築した白黒の映像世界では、D・A・ベネベイカーやリチャード・レスターから、より滑らかでイカしたロンドンを思わせるジョン・シュレシンジャーの「ダーリング」のスタイルまでが、途切れなく微妙に取り入れられている。そしてまた、とらえどころのないイーディ・セジウィックに似たブロンドのココ(ミシェル・ウィリアムズ)を追いかけるジュードの不毛な恋、彼の新しいサウンドに怒る観客を前にした彼の果敢な行動、ジュードがペテン師であるということを暴こうとするインテリ記者(ブルース・グリーンウッドが、すばらしい演技を見せている)の厳しい追求など、さまざまなものが組み合わさり、この一節を盛り上げている。
ブランシェットの演技は、衝撃の度合いという意味でも、長さの意味でも、この作品における決定的な転換点となっている。その演技とともに物語が進み、ブランシェットの演じる人物は薬と妄想に取り付かれ、ますます狂気を募らせていく。その一方、精神的な深みだけを追いかけるマンネリズムに頼る姿が明らかになっていく。それにしても、このブランシェットの配役と演技は、まさに大胆不敵な一手だったと言える。ボブ・ディランとキャサリン・ヘップバーンの両方になりきるようリクエストを受けた俳優は、地球上で彼女だけだろう。そして、その両方を見事に演じきっている。
ジュードのイギリス演奏ツアー、そしてそれに関連する出来事はまさに、本作の核であり、ハイライトである。アレン・ギンズバーグやビートルズといった著名人との出会いも用意されている(「ビートルズがやって来る/ヤァヤァヤァ!」のスタイルを踏襲したギャグも、この一節に放り込まれている)。ブランシェットの存在に加え、才気ある映像で知られるヘインズと撮影監督エドワード・ラックマンが構築した白黒の映像世界では、D・A・ベネベイカーやリチャード・レスターから、より滑らかでイカしたロンドンを思わせるジョン・シュレシンジャーの「ダーリング」のスタイルまでが、途切れなく微妙に取り入れられている。そしてまた、とらえどころのないイーディ・セジウィックに似たブロンドのココ(ミシェル・ウィリアムズ)を追いかけるジュードの不毛な恋、彼の新しいサウンドに怒る観客を前にした彼の果敢な行動、ジュードがペテン師であるということを暴こうとするインテリ記者(ブルース・グリーンウッドが、すばらしい演技を見せている)の厳しい追求など、さまざまなものが組み合わさり、この一節を盛り上げている。
物語の動きをゆるめてしまった、ギア出演の西部劇的なくだり
残念なことに、第二幕で活力と説得力を得ていた物語は、世間の注目を集め、著名であった過去を捨てようと、山の中で隠遁生活をおくる男ビリー(リチャード・ギア)に、無理やり、そして唐突に焦点を当てるくだりあたりから、ゆっくりと動きを止めてしまう。この一節は、当時のディランの状態を説明しているだけでなく、彼が脇役で出演しているサム・ペキンパー監督作品『ビリー・ザ・キッド 21才の生涯』をなぞっていることも明白である。
ペキンパーと『ギャンブラー』両方に敬意を表したのであろうけれども、この無理やり押し込まれたような一節は、どこをとっても着想自体が貧弱で、劇的なものもなく、何も与えてくれない。作品からリチャード・ギアのような大物スターを消し去ってしまうことができなかったことは疑いの余地もないのだが、できあがった作品としては、このとりとめのない西部劇的な素材がなかったほうが、よっぽどマシなものになったであろうし、ヘインズ監督にしても何も思い入れがなかったのではないかと思わざるを得ない。
物語は、その後もさまざまなかたちでディランを表現していくのだが、この曲がり角を曲がり間違えてしまったことで、行く先が変わってしまったようだ。その後の作品は、ただただ、よろめくように進んでいくだけのものになってしまっている。ただ最後の最後、ディラン本人が登場し、演奏をするくだりで、彼が大きくスクリーンに映し出されたとき、束の間ではあるが、作品はその生命力を取り戻し、映像自体も印象に残るものになっている。
ペキンパーと『ギャンブラー』両方に敬意を表したのであろうけれども、この無理やり押し込まれたような一節は、どこをとっても着想自体が貧弱で、劇的なものもなく、何も与えてくれない。作品からリチャード・ギアのような大物スターを消し去ってしまうことができなかったことは疑いの余地もないのだが、できあがった作品としては、このとりとめのない西部劇的な素材がなかったほうが、よっぽどマシなものになったであろうし、ヘインズ監督にしても何も思い入れがなかったのではないかと思わざるを得ない。
物語は、その後もさまざまなかたちでディランを表現していくのだが、この曲がり角を曲がり間違えてしまったことで、行く先が変わってしまったようだ。その後の作品は、ただただ、よろめくように進んでいくだけのものになってしまっている。ただ最後の最後、ディラン本人が登場し、演奏をするくだりで、彼が大きくスクリーンに映し出されたとき、束の間ではあるが、作品はその生命力を取り戻し、映像自体も印象に残るものになっている。
時代の真実さを伝えることに成功し、音楽の使い方も知性的で躍動感あり
『アイム・ノット・ゼア』をもっとも楽しむのは、ディラン・マニアや研究者なのだろう。一方で、ヘインズ監督がディランの半生の本質、そしてその奥に秘められた意味を汲みとりながら、思う存分に表現し、伝記的な記録を掘り起こしたり、改ざんしたりしながらも現実を映し出そうとした反面、歪めてしまったことに対しては、今後、多くの意見がぶつけられることになるであろう。題材から、一般的な近づきやすさを排除したということを無視すれば、こういった監督の試みにより、作品の重要性が増していることは事実である。結局のところ、この作品は、専門家のための作品だということである。
制作面では、映像的にも音響的にもすばらしいものになっている。モントリオール周辺で行われたロケーション撮影も、アメリカの北東部やロンドンとその周辺、そしてパリといった多彩な設定さながらである。プロダクション・デザイナーのジュディ・ベッカーの仕事も賛辞に値する。ジョン・ダンによってデザインされた衣装、そしてメイクアップ、ヘア、集められた装飾品なども、時代の真実さを伝えることに成功している。ディランの音楽の使い方も知性的で躍動感がある。
『アイム・ノット・ゼア』が、全てを語っているわけではないかもしれない。それでも、この作品について語ることが多いことだけは確かだ。
制作面では、映像的にも音響的にもすばらしいものになっている。モントリオール周辺で行われたロケーション撮影も、アメリカの北東部やロンドンとその周辺、そしてパリといった多彩な設定さながらである。プロダクション・デザイナーのジュディ・ベッカーの仕事も賛辞に値する。ジョン・ダンによってデザインされた衣装、そしてメイクアップ、ヘア、集められた装飾品なども、時代の真実さを伝えることに成功している。ディランの音楽の使い方も知性的で躍動感がある。
『アイム・ノット・ゼア』が、全てを語っているわけではないかもしれない。それでも、この作品について語ることが多いことだけは確かだ。
































