●原題:The Bucket List/2007年/アメリカ/97分/5月10日(土)より全国ロードショー
●配給:ワーナー・ブラザース
●配給:ワーナー・ブラザース
“死”を扱いながらも心あたたまる映画であり、“死んでしまうこと”に関するシチュエーション・コメディであり、頭の回転の鈍い人のための『生きる』(黒澤明監督)とも位置づけられる。また、残された最後の日々をいかにして生きていきたいかを決め、現実に直面する2人のガン患者の姿を描いた映画でもある。こうした背景と、ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマンという2大スターの力により、この気難しく無愛想な老人ものを再構築した作品は、90年半ばから低迷を続ける監督ロブ・ライナーの久しぶりのヒット作品となる予感がする。とは言っても、作品の前面に押し出された感性からすると、家庭用の小さな画面の方が、くつろいで見ることができるという評価に落ち着きそうな作品でもある。
毎日の食いぶちを稼ぐ自動車整備工と
金で買えるものは何でも持っている病院経営者
作品の冒頭で、自動車整備工カーター・チェンバース(モーガン・フリーマン)がタバコを吸う姿を見せているのだが、これはすなわち、この愛想のいい男性が、墓場に向けてまっしぐらであることを意味している。だが、彼が最初にたどり着くのは病院の一室であり、そこで自分がどれほどお金持ちなのかわらなくなっているような大金持ちのエドワード・コール(ジャック・ニコルソン)に出会う。エドワードは、病院のオーナーであるにもかかわらず、自らに課した“全ての患者に平等な治療を”という規則にのっとり、見ず知らずの患者カーターとの相部屋に入ることを余儀なくされている。
2人の男は、生きる望みをつなごうとガン治療に専念するのだが、残された時間はおおよそ1年と診断されてしまう。それでも、無理やり始まった共同生活は、2人に夢や後悔、そして残された希望をじっくり考えるだけの時間を与えてくれる。この時間を遮るのは、突然、襲ってくる尿意でトイレに駆け込むことだけである。
有名なクイズ番組「ジェパディ」のクイズを解くのが得意で、哲学に傾倒しているカーターが、本当になりたかったのは、歴史の教師であった。ただ、増え続ける家族を養うために、その夢を断念し、毎日の食いぶちを稼ぐという現実に直面していたのである。それとは真逆に、エドワードは金で買えるものは何でも持っていた。持っていなかったのは安定した家族との暮らしだけ。4度も結婚していながら、たった1人の娘とも会うことができない、そんな彼であった。
2人の男は、生きる望みをつなごうとガン治療に専念するのだが、残された時間はおおよそ1年と診断されてしまう。それでも、無理やり始まった共同生活は、2人に夢や後悔、そして残された希望をじっくり考えるだけの時間を与えてくれる。この時間を遮るのは、突然、襲ってくる尿意でトイレに駆け込むことだけである。
有名なクイズ番組「ジェパディ」のクイズを解くのが得意で、哲学に傾倒しているカーターが、本当になりたかったのは、歴史の教師であった。ただ、増え続ける家族を養うために、その夢を断念し、毎日の食いぶちを稼ぐという現実に直面していたのである。それとは真逆に、エドワードは金で買えるものは何でも持っていた。持っていなかったのは安定した家族との暮らしだけ。4度も結婚していながら、たった1人の娘とも会うことができない、そんな彼であった。
『珍道中』シリーズと同じくらいの現実味と
“リアプロジェクション方式”のノスタルジア
映画前半のハイライトは、ニコルソンが手術の準備のために、頭の毛をつるつるに剃りあげるというところ。なので、この恰幅のいいスターは、残りの時間を皮肉たっぷりなミシュラン・タイヤのマスコット、または『地獄の黙示録』でマーロン・ブランドが演じたカーツ大佐の陽気な兄弟、という趣で登場し続けるのだ。
カーターが書き留めていた“死ぬまでにしておきたい、いくつかの事柄”。本当に控えめなそれらの事柄を見つけたエドワードは、そのリストを“棺おけリスト”と呼び、スカイ・ダイビングやカーレース、そして自分にとっては当たり前の交通手段となっている自家用ジェットを使っての旅といった大げさで、見た目にもずっと派手な行事を追加しようじゃないか、と持ちかける。
カーターと彼のことを心配して当然な妻(ビバリー・トッド)の間で壮絶な言い争いが繰り広げられた後、2人の老いぼれは、南フランスから南アフリカ、ピラミッド、タージマハール、万里の長城、ヒマラヤ、そして香港を周る世界一周旅行に出かけることとなる。残念ながら、この映画は、そうやすやすと撮影所を出たりはしない。ニコルソンとフリーマンが世界を駆け巡るシーンは、2人はハリウッドにいたままで、特殊視覚効果による合成シーンのオンパレードということになるのだが、それはそれでボブ・ホープとビング・クロスビーの『珍道中』シリーズと同じくらいの現実味はあるし、そこまで面白くないにしても、深みがあると言えなくもない。この旅のシーンのもつ、独特なインチキくささは、もう遠い日の出来事となってしまった“リアプロジェクション方式”、そう、あの背面だけが合成される作品を思い出させ、ひと時だがノスタルジアに浸ることができる。
カーターが書き留めていた“死ぬまでにしておきたい、いくつかの事柄”。本当に控えめなそれらの事柄を見つけたエドワードは、そのリストを“棺おけリスト”と呼び、スカイ・ダイビングやカーレース、そして自分にとっては当たり前の交通手段となっている自家用ジェットを使っての旅といった大げさで、見た目にもずっと派手な行事を追加しようじゃないか、と持ちかける。
カーターと彼のことを心配して当然な妻(ビバリー・トッド)の間で壮絶な言い争いが繰り広げられた後、2人の老いぼれは、南フランスから南アフリカ、ピラミッド、タージマハール、万里の長城、ヒマラヤ、そして香港を周る世界一周旅行に出かけることとなる。残念ながら、この映画は、そうやすやすと撮影所を出たりはしない。ニコルソンとフリーマンが世界を駆け巡るシーンは、2人はハリウッドにいたままで、特殊視覚効果による合成シーンのオンパレードということになるのだが、それはそれでボブ・ホープとビング・クロスビーの『珍道中』シリーズと同じくらいの現実味はあるし、そこまで面白くないにしても、深みがあると言えなくもない。この旅のシーンのもつ、独特なインチキくささは、もう遠い日の出来事となってしまった“リアプロジェクション方式”、そう、あの背面だけが合成される作品を思い出させ、ひと時だがノスタルジアに浸ることができる。
岩のようにどっしり構えるフリーマンに
狂ったボールのようにぶつかっていくニコルソン
病気すら魔法で消し去られているかのような旅のシーンで、2人の人生に関する考察はフライパンほどの深みしかない。脚本家デビューとなったジャスティン・ザッカムの、ボタンを押していくような脚本も、カーターが懸命に再会の場を持たせようとするエドワードの娘に関する事柄や、カーターの果たすことのできなかった夢に関する潜在的な後悔の念といった未解決の感情的な問題に焦点を集めすぎているきらいがあり、広がりがない。そういった問題も一応の解決を見るのだが、観客がすぐに盛り上がることができるように、にべもなく、あからさまな方法で処理されてしまっている。
同じ主題をあつかうにしても、フリーマンが生来持っている俳優としての生真面目さを考えれば、本当の意味での重厚な思慮深さを発揮してもよかったはずだ。ところが実際は、いつもどおりの安定感で岩のようにどっしり構えるフリーマンに、ニコルソンが狂ったボールのようにぶつかっていくという構図を生み出しただけ。エドワードの人生の捉え方は大げさでハデハデしいのだが、これはニコルソン自身の姿と重なる。ニコルソンとしては必要以上に大げさにしたということではないのだろうが、それでもまだ、観客はスターそのものを見てしまっているので、登場人物としてというよりは、ニコルソン自身と用意されている素材との間を関連付けてしまうことになる。
同じ主題をあつかうにしても、フリーマンが生来持っている俳優としての生真面目さを考えれば、本当の意味での重厚な思慮深さを発揮してもよかったはずだ。ところが実際は、いつもどおりの安定感で岩のようにどっしり構えるフリーマンに、ニコルソンが狂ったボールのようにぶつかっていくという構図を生み出しただけ。エドワードの人生の捉え方は大げさでハデハデしいのだが、これはニコルソン自身の姿と重なる。ニコルソンとしては必要以上に大げさにしたということではないのだろうが、それでもまだ、観客はスターそのものを見てしまっているので、登場人物としてというよりは、ニコルソン自身と用意されている素材との間を関連付けてしまうことになる。
一昔前のハリウッド製コメディ・ドラマなら
すばらしい脇役陣をそろえるところだが・・・
旅のお供をするエドワードの雑役係の役柄などには、いくらでもコメディ的な要素を盛り込むことができたであろうに、本来、脚本に書かれている役柄が面白くなく、融通もきかない状態なので、シチュエーション・コメディ「ふたりは友達?ウィル&グレース」のショーン・ヘイズが役柄に命を吹き込もうとしたところで、どうにもならない。似たような題材を扱った一昔前のハリウッド製コメディ・ドラマなら、少なくとも5本指に余るくらい、すばらしい脇役陣をそろえたりしたものだが、この作品には、その辺が足りていないことが、まざまざと感じられてしまう。
膨らみ続ける旅の映像に必死で着いていきながらも、技術陣は、いつもの通りの仕事をしたといったところである。
膨らみ続ける旅の映像に必死で着いていきながらも、技術陣は、いつもの通りの仕事をしたといったところである。











































