●原題:Rambo/2008年/アメリカ/91分/2008年5月24日から日本公開
●配給:ギャガ・コミュニケーションズ
●配給:ギャガ・コミュニケーションズ
シルヴェスター・スタローン追想の旅は『ロッキー』シリーズ最新作で幕を開け、『ランボー』シリーズ4作目にあたる本作を送り出した。スタローンとしては、まっとうに演じているのだが、年老いていくアクション・スターが再度バンダナを額に巻きつける、というアイデア自体は、信じられないほどの数の死亡者が描かれているにも関わらず、この映画をほとんどコメディにしてしまうほど、笑えるものでもある。というわけで、観客の多くが装甲殺傷兵器の人間に対する殺傷能力の高さをあがめるために、劇場に集まる一方で、大量殺戮を繰り返すことを敢えてやめない、そんなリスクを犯すつもりもない映画にランボーが戻ってきたということに、苦笑する観客も多いことだろう。
まるで、ヴェトナム問題に対する国民投票のよう
これまでの“ロッキー”の成績表からすれば、滑り出しの興行成績は力強いものになるだろう。それは11人にもおよぶ製作総指揮に、報酬を支払うためにも喜ばしいことだ。それにしても製作総指揮が11人もいること自体、スタローンによる共同脚本、監督、そして再びの主演をもってランボー復活を練り上げていくために、そんな歪んだビジネスが必要だったんだ、ということを証明しているようなものである。
本作がヴェトナム問題に対する国民投票のようなものになってしまったということを考え合わせれば、ある意味、タイミングとしても不思議に絶妙なものであると言える。あの戦争も、我々がランボーに彼の仕事をきっちりとさせ、彼1人に故国での同胞たちの罪を償う役を任せていれば(彼は償って、償って、償いまくるのだが)、勝つこともできたんじゃないかという説まで提唱されている。昨今、イラクに関する論戦が交わされている状況を考えれば、この最新版“大量殺戮映画”は、そんな論戦の地雷をうまくかわしていくのかもしれない。とは言っても、ランボーの歴史を知っている人々にとってみれば、そんな論戦こそがこの映画の言外の意味であり、避けられないものであることに変わりはないのだが…。
ランボーが最初に我々の目の前に登場したのは1982年のことであるが、彼を最後に見たのは、20年前、アフガン聖戦組織ムジャヒディーンと共にソヴィエト侵攻と戦ったときのことだ。いうなれば、より多くの爆破シーンと少なめの台詞で描かれた『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』といったところだったのである。
本作がヴェトナム問題に対する国民投票のようなものになってしまったということを考え合わせれば、ある意味、タイミングとしても不思議に絶妙なものであると言える。あの戦争も、我々がランボーに彼の仕事をきっちりとさせ、彼1人に故国での同胞たちの罪を償う役を任せていれば(彼は償って、償って、償いまくるのだが)、勝つこともできたんじゃないかという説まで提唱されている。昨今、イラクに関する論戦が交わされている状況を考えれば、この最新版“大量殺戮映画”は、そんな論戦の地雷をうまくかわしていくのかもしれない。とは言っても、ランボーの歴史を知っている人々にとってみれば、そんな論戦こそがこの映画の言外の意味であり、避けられないものであることに変わりはないのだが…。
ランボーが最初に我々の目の前に登場したのは1982年のことであるが、彼を最後に見たのは、20年前、アフガン聖戦組織ムジャヒディーンと共にソヴィエト侵攻と戦ったときのことだ。いうなれば、より多くの爆破シーンと少なめの台詞で描かれた『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』といったところだったのである。
“あの人”を解き放つ時がきた? ひたすら残虐な殺戮シーン
この「4」という数字がどこにも見当たらない最新作で、元アメリカ陸軍特殊部隊員の殺人マシンはタイに住んでいる。蛇を捕まえることで生計を立て、皮膚はガサガサ、声はガラガラ、話すときにはうんざりしたように、人の心をしぼませるように睨みつけるだけではなく、それ以上の何かがあるぞと思わせぶりたっぷりに話をする、という具合である。
ミャンマーを訪れようとしている、人道主義の理想にあふれる医者たちで形成される教会のグループを運ぶために雇われたランボーは、最初、危険な内戦が起きていることを引き合いに出し、仕事を引き受けようとしない。事実、この映画に登場するミャンマー人は、大きく2つに分けることができる。ひとつは、砲弾の餌食となる消耗品のような兵士たち、もうひとつは、まるでショーのように村の老若男女を殺戮する残虐な殺し屋たちである。正義の怒りに燃える、例の“あの人”を解き放つ時がきたようだと、誰もが思うような状況である。
教会グループの中に、サラ(米ショータイムのテレビシリーズ「デクスター/警察官は殺人鬼」のジュリー・ベンツ)がいた。彼女と出会い、一瞬で心を溶かされたランボーはグループを川の上流地域、そして無人緩衝地帯へと案内することを決心する。その後、サラと仲間たちが投獄されてしまったことを知ると、ランボーは数人の傭兵部隊とともに現地に戻ることにも同意する。彼はそこで、勝ち目のない戦いに挑むのである。ここで話をしても、映画を台無しにはしないだろうから言っておくが、このとき対する敵の数は100人ほどだとされているが、その10倍もの兵士たちが血の海の中、手足をもぎ取られながら死んでいくように見えるのである。
ミャンマーを訪れようとしている、人道主義の理想にあふれる医者たちで形成される教会のグループを運ぶために雇われたランボーは、最初、危険な内戦が起きていることを引き合いに出し、仕事を引き受けようとしない。事実、この映画に登場するミャンマー人は、大きく2つに分けることができる。ひとつは、砲弾の餌食となる消耗品のような兵士たち、もうひとつは、まるでショーのように村の老若男女を殺戮する残虐な殺し屋たちである。正義の怒りに燃える、例の“あの人”を解き放つ時がきたようだと、誰もが思うような状況である。
教会グループの中に、サラ(米ショータイムのテレビシリーズ「デクスター/警察官は殺人鬼」のジュリー・ベンツ)がいた。彼女と出会い、一瞬で心を溶かされたランボーはグループを川の上流地域、そして無人緩衝地帯へと案内することを決心する。その後、サラと仲間たちが投獄されてしまったことを知ると、ランボーは数人の傭兵部隊とともに現地に戻ることにも同意する。彼はそこで、勝ち目のない戦いに挑むのである。ここで話をしても、映画を台無しにはしないだろうから言っておくが、このとき対する敵の数は100人ほどだとされているが、その10倍もの兵士たちが血の海の中、手足をもぎ取られながら死んでいくように見えるのである。
ランボーの世界と同じように荒涼とした場面の数々
設定としてはジャングル、撮影はタイで行われたにもかかわらず、この映画は不思議なほどに色あせて見える。いくつかの場面は、ご近所のグリフィス・パーク(米ロサンゼルスのダウンタウン近くの公園)で撮影されたかのように見えるほどだ。さらに、複数のシーンが、激しく降りそぼる雨の中と設定されていて、ほぼ適度な上映時間内(エンドロールが流れ始めるまで、およそ80分間)で、低予算で製作されたことを目立たなくすることに一役買っている。
とは言うものの、ランボーの世界もまた同じように荒涼としているのだ。「命を奪うことは、どんな状況であれ許されない不正なことだ」などと言うおせっかいな医者(ポール・シュルツ)は、明らかに不快な現実を突きつけられることになる。ランボーにおいては、殺人が正当化されていることを知るだけでなく、薄もやのかかったような回想シーンの後、心ならずも人を殺すことしか特技がない、ということを受け入れるのである。
とは言うものの、ランボーの世界もまた同じように荒涼としているのだ。「命を奪うことは、どんな状況であれ許されない不正なことだ」などと言うおせっかいな医者(ポール・シュルツ)は、明らかに不快な現実を突きつけられることになる。ランボーにおいては、殺人が正当化されていることを知るだけでなく、薄もやのかかったような回想シーンの後、心ならずも人を殺すことしか特技がない、ということを受け入れるのである。
アクションを辞める気など、さらさらないスタローン
スタローン(とても健康的に見えるが、ほとんどの場面でシャツ着用のままである)には、アクションを辞める気など、さらさらないのだろう。しかしながら、ユーモアに目を向けるとか、それと刺し違えてみるとか(過激な表現で申し訳ない)、そういうことを知らないままでは、明らかに気が滅入るだけである。一方で、ミャンマーの悪党に天罰が下るよう地固めをするために、彼らの背景を適度に描き出す手法などは、あらゆる点において職人技だと言っておこう。
ランボーがボートを操り、寄せ集めの兵士を率いて川を下る様子を見ていると、実際に雰囲気が似ている『地獄の黙示録』のある台詞を思い出す。状況が違うので、少しだけ変更を加えてみたが、こんな風だ。
「彼は映画を望んだ。そして我々に対する何かの罰であろうか、彼に1本の映画が与えられたのだ」
ランボーがボートを操り、寄せ集めの兵士を率いて川を下る様子を見ていると、実際に雰囲気が似ている『地獄の黙示録』のある台詞を思い出す。状況が違うので、少しだけ変更を加えてみたが、こんな風だ。
「彼は映画を望んだ。そして我々に対する何かの罰であろうか、彼に1本の映画が与えられたのだ」











































