●2008年/日本/カラー/アメリカンビスタ/ドルビーデジタル/145分/2008年7月5日から日本公開
●配給:東映、ギャガ・コミュニケーションズ
●配給:東映、ギャガ・コミュニケーションズ
長篇小説の映画化は、なぜ報われないことが多いのか?

(c)2008「クライマーズ・ハイ」フィルム・パートナーズ
ぜひ映画化してほしいと思う長篇の原作ほど、映画版を観た後に報われないことが多いのはなぜだろう。その例としてすぐに思い出すのは、スティーヴン・キングの映画化であって、特に「ファイアスターター」(映画は『炎の少女チャーリー』)、「クージョ」(映画は『クジョー』)など私のとびきりお気に入りの原作は、映画版となるといったい何をしてくれたんだという出来である。近年の日本映画でも同じような感想を抱いたことがあって、それは高村薫「レディ・ジョーカー」、桐野夏生「OUT」についてであった。
さて、いま挙げた不発の映画化作品に共通することがひとつあるのをお気づきだろうか。それは、いずれもストーリー自体は驚くべきほどにほとんど原作そのままだということである。莫大な数のうるさ方の読者から賞賛されて売れた原作、そのストーリーがそのまま再現されているのに、映画がまるで別物のように魅力を欠くというのは、これは異なという感じであるが、ここで浮上してくるポイントはそれらの原作が「長篇」だということである。つまり、読者が面白がっていたのはもちろん物語ではありつつも、それと同じくらいに作者が長い物語を伝える「語り」の様式、つまり物語ることの緩急や省略、飛躍のトーンやリズムが重要であったということだ。
ところが、くだんの映画化作品は原作に敬意を払ってストーリーを忠実に押し込むことを優先し、その紙芝居的な交通整理に終始している感がある。しかしそれ以上に重要なのは、原作者の語りの魅惑に拮抗する、映画ならではの個性的な語りの様式を介在させることなのだ。「レディ・ジョーカー」とは対照的に、同じ高村薫でも崔洋一監督『マークスの山』の大胆な翻案を伴う語りは(原作者には不評であったとも聞くが)ごく刺激的で、崔監督に聞けば3時間30分のディレクターズ・カットも存在したという(なんとしても観てみたいところだが、なんとジャンクされてしまったらしい!)。
さて、いま挙げた不発の映画化作品に共通することがひとつあるのをお気づきだろうか。それは、いずれもストーリー自体は驚くべきほどにほとんど原作そのままだということである。莫大な数のうるさ方の読者から賞賛されて売れた原作、そのストーリーがそのまま再現されているのに、映画がまるで別物のように魅力を欠くというのは、これは異なという感じであるが、ここで浮上してくるポイントはそれらの原作が「長篇」だということである。つまり、読者が面白がっていたのはもちろん物語ではありつつも、それと同じくらいに作者が長い物語を伝える「語り」の様式、つまり物語ることの緩急や省略、飛躍のトーンやリズムが重要であったということだ。
ところが、くだんの映画化作品は原作に敬意を払ってストーリーを忠実に押し込むことを優先し、その紙芝居的な交通整理に終始している感がある。しかしそれ以上に重要なのは、原作者の語りの魅惑に拮抗する、映画ならではの個性的な語りの様式を介在させることなのだ。「レディ・ジョーカー」とは対照的に、同じ高村薫でも崔洋一監督『マークスの山』の大胆な翻案を伴う語りは(原作者には不評であったとも聞くが)ごく刺激的で、崔監督に聞けば3時間30分のディレクターズ・カットも存在したという(なんとしても観てみたいところだが、なんとジャンクされてしまったらしい!)。
原田眞人監督の仕立て上げた、クセのある劇場空間
前置きが長くなったが、今どきぜひ映画化してほしい長篇小説の筆頭に挙がるであろう「クライマーズ・ハイ」は、ぜひそういう意味で強烈な語りを身上とする作家に手がけてもらたいと思ったのだが、その線では人後に落ちぬ 原田眞人監督と聞いて期待はいや増すばかりであった。『KAMIKAZE TAXI』の図太くうねるユニークな時間感覚や『金融腐蝕列島 〔呪縛〕』の株主総会を劇場空間に転化させる虚構的な空間感覚、そしてそれらの諸作に通底する集団的な作劇の妙など、どれをとっても「クライマーズ・ハイ」には持って来いの資質ではないかと思ったからだ。
そして観終えた『クライマーズ・ハイ』は予想に違わぬ意欲作で、何より全篇人間たちににじりよる切り口が一本筋の通る感じであった。すでに2005年に大森寿美男脚本の前後篇2時間半におよぶNHKドラマ版も作られており、この作品では既にストーリーもけっこう手際よく消化されていたので、後続の映画となるといよいよストーリーを超えた付加価値がなければ辛いところである。だが、原田眞人は、テレビ版以上にあくの強い人物たちで隅々まで埋め尽くし、地方新聞の編集局フロアをひと癖もふた癖もある俳優たちの劇場空間に仕立て上げた。
そして観終えた『クライマーズ・ハイ』は予想に違わぬ意欲作で、何より全篇人間たちににじりよる切り口が一本筋の通る感じであった。すでに2005年に大森寿美男脚本の前後篇2時間半におよぶNHKドラマ版も作られており、この作品では既にストーリーもけっこう手際よく消化されていたので、後続の映画となるといよいよストーリーを超えた付加価値がなければ辛いところである。だが、原田眞人は、テレビ版以上にあくの強い人物たちで隅々まで埋め尽くし、地方新聞の編集局フロアをひと癖もふた癖もある俳優たちの劇場空間に仕立て上げた。
クライマーズ・ハイはいつの間にか訪れる
セクハラとパワハラの権化のような社長(山崎努)、彼から思いつきのように大事故取材の全権デスクをまかせられる一本気な遊軍記者・悠木(堤真一)、彼を露骨に批判し足を引っ張る局次長(螢雪次朗)、悠木と真っ向から衝突する社会部部長(遠藤憲一)、その下で悠木に嫉妬する同期のデスク(堀部圭亮)、ごくニュートラルな立場で報道に情熱を傾ける県警キャップ(堺雅人)と地域報道班の女性部員(尾野真千子)、しばしば危機に立つ悠木を助ける政経部デスク(田口トモロヲ)や整理部部長(でんでん)と同部員(マギー)、こうした猛者たちをジェントルかつ冷静にまとめる編集局長(中村育二)、対照的に泥くさくごつく編集局を批判する販売局の局長(皆川猿時)、その下の部員ながら登山の絆で悠木と結ばれている盟友(高嶋政宏)……このほかさらに印象的な社外の人物たちも含まれるのだが、こうしたおびただしい人物たちの主張や雰囲気をいちいち鮮明に思い出せるところが本作の凄いところである。本作のスリリングな面白さは、彼らのどぎつくぶつかりあう主張が混沌としてゆくさまであり、『伝染歌』が売りのオカルトを通過して集団劇の喧騒に走ったように、背景の航空事故の描写はほとんど影をひそめ(望ましいことである)、作品のほとんどは嫉妬と野心と突っ張りに衝き動かされた男騒ぎの世界となった。
「大久保(清)」に「連赤」という大過去の栄光で食ってきた地方紙の編集部に「未曾有の航空事故」が舞い込んだことにより、部内の人間関係に充満していた嫉妬と野心の火種が、一気にあちこちで着火する。周囲のちゃちな思惑を吹っ飛ばすべく突っ張りぬこうとする悠木は、ついに正念場の決断を強いられる。これは映画が一気に爽快に終わるか、きつい苦味を残して終わるか、つまり悠木はヒーローなのかアンチ・ヒーローなのかという分岐点でもあるわけだが、原田眞人がここでビリー・ワイルダーの『地獄の英雄』を引いてズボンにベルトとサスペンダーを両方している念入りな新聞社の編集長の台詞「チェック、ダブルチェック」を持って来たのはシャレていた。
かまびすしい混沌の描写はいわゆるセミ・クライマックスやクライマックスといった折り目正しい構成を無視してめりはりを欠くうらみもあろうが、しかし本作の意図されたまとまらなさは正解ではないかと思う。実際、山であれ地上であれ、クライマーズ・ハイが訪れるのは、緊張や喧騒のなか、いつの間にかに、ということではなかろうか。まさにそんな気分で、本作の喧騒と混沌はクライマーズ・ハイさえも走り抜けてゆくのであった。
「大久保(清)」に「連赤」という大過去の栄光で食ってきた地方紙の編集部に「未曾有の航空事故」が舞い込んだことにより、部内の人間関係に充満していた嫉妬と野心の火種が、一気にあちこちで着火する。周囲のちゃちな思惑を吹っ飛ばすべく突っ張りぬこうとする悠木は、ついに正念場の決断を強いられる。これは映画が一気に爽快に終わるか、きつい苦味を残して終わるか、つまり悠木はヒーローなのかアンチ・ヒーローなのかという分岐点でもあるわけだが、原田眞人がここでビリー・ワイルダーの『地獄の英雄』を引いてズボンにベルトとサスペンダーを両方している念入りな新聞社の編集長の台詞「チェック、ダブルチェック」を持って来たのはシャレていた。
かまびすしい混沌の描写はいわゆるセミ・クライマックスやクライマックスといった折り目正しい構成を無視してめりはりを欠くうらみもあろうが、しかし本作の意図されたまとまらなさは正解ではないかと思う。実際、山であれ地上であれ、クライマーズ・ハイが訪れるのは、緊張や喧騒のなか、いつの間にかに、ということではなかろうか。まさにそんな気分で、本作の喧騒と混沌はクライマーズ・ハイさえも走り抜けてゆくのであった。











































