『ナンバー23』
●監督:ジョエル・シューマッカー 脚本:ファーンリー・フィリップス 撮影:マシュー・リバティーク 編集:マーク・スティーヴンス 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ 製作:ボー・フリン、トリップ・ヴィンソン 共同製作:ファーンリー・フィリップス 製作総指揮:マイク・ドレイク、トビー・エメリッヒ、リチャード・ブレナー、キース・ゴールドバーグ、ブルックリン・ウィーヴァー、イーライ・リッチバーグ
●出演:ジム・キャリー、ヴァージニア・マドセン、ローガン・ラーマン、ダニー・ヒューストン
●2007年/アメリカ/97分/2007年11月23日より日本公開
●配給:角川映画
●出演:ジム・キャリー、ヴァージニア・マドセン、ローガン・ラーマン、ダニー・ヒューストン
●2007年/アメリカ/97分/2007年11月23日より日本公開
●配給:角川映画
「巧妙に仕掛けられた数霊術」+「ジム・キャリー」−「物語の一貫性」=『ナンバー23』。 本作品は、視覚的にも心理的にも暗いところばかりが目に付くスリラーでしかなく、名ばかりな数字の秘密に取り付かれた主人公が登場する、汚らしく装飾された「セサミ・ストリート」の一話のようなものに仕上がってしまった。ダーク・ファンタジー風のシーンも、満載されたデマ情報も、このまじめ腐った顔をしただけの、まるで馬鹿げたジョエル・シューマッカー作品を盛り立てることはできていない。とはいえ、悲観的なスリラーにキャリーを配役したことで、それを目当てにする観客は少なからずいるかも知れず、興行成績は、そこそこ格好のつくものになるだけの可能性は残っている。
歴史的に関係する謎の数字23
初めて映画化されたファーンリー・フィリップス書き下ろしの脚本は、「23という謎めいた数字」を中心にして構成されているもので、それによれば、すべての重要な出来事や、名前、日付や時間が何らかの理由で数字の23に関係しているということになる。歴史的な事例を挙げてみれば、ジュリアス・シーザーは暗殺のときに23回、体を刺され、シェイクスピアは1564年4月23日生まれで、1616年4月23日に亡くなっており、タイタニックは1912年4月15日に海中深く沈んだわけだが、その数字、1、9、1、2、4、1、5を足してみれば答えは23になる、などなど。(もちろん、同じ論理を使って、シェイクスピアの誕生日の数字を足してみると、1+5+6+4+4+2+3で、25になってしまう。でもまあ、これは気にしないで、ということなんだろうな。)
映画の中で進行する犯罪小説
中年にさしかかった野犬捕獲係ウォルター・スパロウ(キャリー)は、妻アガサ(ヴァージニア・マドセン)から、「ナンバー23」という題名のミステリー小説(ミステリーだから、アガサって言うのが、あざといけれど)をもらったときから、妙な現象のことで頭がいっぱいになってしまう。フィンガリングという刑事(キャリーが二役)の薄気味の悪いナレーションで進行する小説を読み進むうち、ウォルターは、小説の主人公と自分自身に奇妙な共通項がたくさんあることに気がついてしまう。フィンガリング同様、ウォルターも彼の人生のすべて - 誕生日から社会保障番号に至るまでありとあらゆるものが、呪われた23という数字に影響を受けているのだと結論付けてしまう。
映画の中に登場する小説は、キャリーの少しだけフィリップ・マーロウ風なナレーションによって、スタイリッシュな犯罪のにおいのする場面を展開させていき、果てはフィンガリングが彼の情婦、黒いウィッグ姿のファブリツィオ(マドセンの二役)を殺し、彼女の浮気相手(ダニー・ヒューストン - 余談だが、これまでにないくらい脂ぎっている)に罪を擦り付けるというところまでたどり着いてしまう。
映画の中に登場する小説は、キャリーの少しだけフィリップ・マーロウ風なナレーションによって、スタイリッシュな犯罪のにおいのする場面を展開させていき、果てはフィンガリングが彼の情婦、黒いウィッグ姿のファブリツィオ(マドセンの二役)を殺し、彼女の浮気相手(ダニー・ヒューストン - 余談だが、これまでにないくらい脂ぎっている)に罪を擦り付けるというところまでたどり着いてしまう。
数霊術のセミナーに参加しているようなミステリー
人生とはそもそも、ためらいもなく芸術を模倣するもの。ウォルターは、自分の実際の妻を刺し殺してしまうという幻影に悩まされ始め、その一方、二人の親友アイザック(当然ヒューストンの二役)が、なんだか意味ありげに出入りを始めたりもする。脚本は、その後も殺された女性や、不吉な犬、やたら高等な数式を加えていくことでミステリー色を強めていこうとするが、観客は数霊術のセミナーに参加しているような気分にさせられていくだけである。
暫くしてウォルターは正気を取り戻し、妻アガサや息子ロビン(ローガン・ラーマン)の手を借りて、小説の作者が誰であり、なぜ彼が人の心をもてあそぼうとしているのか突き止めようと行動を起こす。意外な事実が解き明かされようとしていくが、フィリップスの自意識過剰気味で、ひねり過ぎない脚本は、後半に向け明快さを犠牲にして小手先の器用さに走ってしまっている。結果、主題にしてしまった巧妙な数字の仕掛けに固執するあまり、厳密な心理学的な描写に入ることもなく、その後、感動的な家族のドラマに説得力を持ったかたちで生まれ変わることもしてくれない。
暫くしてウォルターは正気を取り戻し、妻アガサや息子ロビン(ローガン・ラーマン)の手を借りて、小説の作者が誰であり、なぜ彼が人の心をもてあそぼうとしているのか突き止めようと行動を起こす。意外な事実が解き明かされようとしていくが、フィリップスの自意識過剰気味で、ひねり過ぎない脚本は、後半に向け明快さを犠牲にして小手先の器用さに走ってしまっている。結果、主題にしてしまった巧妙な数字の仕掛けに固執するあまり、厳密な心理学的な描写に入ることもなく、その後、感動的な家族のドラマに説得力を持ったかたちで生まれ変わることもしてくれない。
映画の中のもう一つの世界を描写しきれなかったシューマッカー
それよりも悪いのは、(『オペラ座の怪人』の後に現代的なスリラーものに戻ってきた)シューマッカー監督。本作映画の中のもうひとつの世界を納得いくように描写するに必要な視覚的な戦略をついぞ立て切れていないといったところ。小説の世界でのシーンには、未来を思わせる純白で埋め尽くされた部屋や狂ったような構図のシーンなど、印象的なイメージがあるにはあるのだが、繰り返し挟み込まれる夢の中のようなディゾルブが、そこにあるはずのサスペンスのリズムをまったく台無しにしてしまっている。
ミスキャストの主人公、説得力に欠ける脇役
ごく最近も『エターナル・サンシャイン』で証明して見せたように(とはいえ、そちらの作品のほうがより独創的に彼の潜在意識を深く掘り下げていたが)、キャリーの才能は馬鹿げたコメディーという範疇をはるかに超えていることだけは証明されている。なのだが、この作品で言えば、彼はミスキャストであり、この役は、まだ彼ほど名前の売れていない性格俳優にこそふさわしかったと言えよう。長く伸ばした髪も似合っておらず、キャリーははじめから、夫役としても父親役としても場違いのように見える。彼が起用された理由が少しだけ分かる気がするのは、後半に用意されたひねりの部分を見る限りにおいてである。
それにしても、ウォルター役、フィンガリング役、そろって説得力のある中心人物にはなりえておらず、前者にダークなユーモアのセンスを吹きこもうとするキャリーの努力は、気を散らせるだけの結果であったことは明白である。マドセンは、ウォルターの妻役としては合格だが、あばずれファブリツィオ役は失敗だったといえる。この才能豊かな女優が、『ファイアーウォール』でもそうしていたように、『サイドウェイ』以降、献身的な妻役は避けようとした結果の選択なのだろうが、いずれにせよ、うまくいっていない。
映画の全体的な雰囲気は、薄汚い緑や茶色を多用して、意図的に単調かつ陰鬱にしてあるのだが、その中でも、明らかなモチーフとして使用されている赤い色が物語をとおして際立った印象を与えている。念のために記しておくけれども、テッド・バンディーが処刑されたのは、1月23日ではなく、1989年1月24日。あしからず。
それにしても、ウォルター役、フィンガリング役、そろって説得力のある中心人物にはなりえておらず、前者にダークなユーモアのセンスを吹きこもうとするキャリーの努力は、気を散らせるだけの結果であったことは明白である。マドセンは、ウォルターの妻役としては合格だが、あばずれファブリツィオ役は失敗だったといえる。この才能豊かな女優が、『ファイアーウォール』でもそうしていたように、『サイドウェイ』以降、献身的な妻役は避けようとした結果の選択なのだろうが、いずれにせよ、うまくいっていない。
映画の全体的な雰囲気は、薄汚い緑や茶色を多用して、意図的に単調かつ陰鬱にしてあるのだが、その中でも、明らかなモチーフとして使用されている赤い色が物語をとおして際立った印象を与えている。念のために記しておくけれども、テッド・バンディーが処刑されたのは、1月23日ではなく、1989年1月24日。あしからず。

































