●製作:キャスリーン・ケネディ、ジョン・キリク 製作総指揮:ピエール・グルンステイン、ジム・レムリー 監督:ジュリアン・シュナーベル 撮影:ヤヌス・カミンスキー 脚色:ロナルド・ハーウッド 原作:ジャン=ドミニク・ボビー(「潜水服は蝶の夢を見る」)
●出演:マチュー・アマルリック、エマニュエル・セニエ、マリー=ジョゼ・クローズ、アンヌ・コンシニー、パトリック・シェネ、ニールス・アルストラップ、オラツ・ロペス・ヘルメンディア、ジャン=ピエール・カッセル、マリナ・ハンズ、マックス・フォン・シドー
●2007年/フランス=アメリカ/112分/2月9日(土)シネマライズ、新宿バルト9、シネカノン有楽町2丁目ほか全国にて日本公開
●配給:アスミック・エース
●出演:マチュー・アマルリック、エマニュエル・セニエ、マリー=ジョゼ・クローズ、アンヌ・コンシニー、パトリック・シェネ、ニールス・アルストラップ、オラツ・ロペス・ヘルメンディア、ジャン=ピエール・カッセル、マリナ・ハンズ、マックス・フォン・シドー
●2007年/フランス=アメリカ/112分/2月9日(土)シネマライズ、新宿バルト9、シネカノン有楽町2丁目ほか全国にて日本公開
●配給:アスミック・エース
脳梗塞の後、「ロックド・イン・シンドローム(閉じ込め症候群)」となり身体の機能を奪われたジャン=ドミニク・ボビー。そんな彼の残した耐え難いほど激烈な回顧録。自らも絵画の世界に耽溺するジュリアン・シュナーベルにとってみれば、ほぼ彼のために用意されたようなキャンバスがそこにあった。それが『潜水服は蝶の夢を見る』である。麻痺してしまった人物の体験を、スクリーン上に蘇らせる試みには説得力があり、撮影された映像も絢爛この上ないこの作品は、記憶と幻想を夢のようなコラージュにつむぎ合わせ、物語自体がボビーの意識の中にさらに深く入り込もうとしているにもかかわらず、どこか観客をその意識から遠く引き離していく。いまだ心を打ち続け、ほろ苦い『潜水服は蝶の夢を見る』は、すでにいくつかの国での上映が決まっており、カンヌの殻を抜け出し世界中で公開される際には、多くの国で温かく迎え入れられることであろう。
植物状態になりながらも渾身の作業で作り上げた機知に富む回顧録
1997年、雑誌ELLEの元編集長ボビーが45歳で亡くなる三日前に出版された奇跡のような回顧録を、彼がどんな大きな苦難を乗り越えて書き上げたのかということを思わずに読み進めるのは不可能であろう。一文字一文字を一回一回の瞬きだけで(閉じ込め症候群にあった彼がコントロールできる筋肉は、彼の片方の瞼だけであった)、気の遠くなるような書き取り作業の末に書き上げられた回顧録は、植物人間状態に閉じ込められてしまってはいるが、桁外れに鋭く、機知に富んだ彼の心を収めたものになっている。
観客は、ボビー(マチュー・アマルリック)のそんな状態を彼の傍らで経験していく。冒頭のシーンが、「トワイライト・ゾーン」のように、どこか方向感覚がおかしくなったのかと思わせるイメージで始まる。それは彼が昏睡状態から醒め、初めて病院のベッドの上で目を開けたときの視線なのだ。身体を動かすことも、話すことも出来ないと気がつきながら、ボビーは担当のルパージュ医師(パトリック・シェネ)から、脳幹が正常に機能しておらず、そのために全身が麻痺してしまっていることを知らされる。
観客は、ボビー(マチュー・アマルリック)のそんな状態を彼の傍らで経験していく。冒頭のシーンが、「トワイライト・ゾーン」のように、どこか方向感覚がおかしくなったのかと思わせるイメージで始まる。それは彼が昏睡状態から醒め、初めて病院のベッドの上で目を開けたときの視線なのだ。身体を動かすことも、話すことも出来ないと気がつきながら、ボビーは担当のルパージュ医師(パトリック・シェネ)から、脳幹が正常に機能しておらず、そのために全身が麻痺してしまっていることを知らされる。
底辺の苦しみを描く美しい絵画のような映像
物語の前半、スピルバーグ映画の常連カメラマン、ヤヌス・カミンスキーが用いた撮影方法は実に効果的で、混濁した意識への出入りを繰り返す様子を再現するため、わざと焦点をぼかし、画像を震え、揺らしている。その視点から、観客たちに、ボビーの生活に欠かせない人々が紹介されていく。テオフィル(テオ・サンパイオ)、セレステ(フィオレッラ・キャンパネラ)といった彼の子供たち、子供たちの母セリーヌ(エマニュエル・セニエ)、言語療養士のアンリエット(マリー=ジョゼ・クローズ) — 彼女に教えてもらった瞬きでアルファベットを綴る方法が、その後の彼の唯一のコミュニケーション手段となる — そして、彼の本を筆記したクロード(アンヌ・コンシニー)。
北フランスの海軍病院に入院したままのボビーを訪ねてくる友人もいる。ローラン(イザック・ド・バンコレ)とルッサン(ニールス・アルストラップ)のふたりなのだが、特にベイルートで捕虜として四年間を過ごしたというルッサンの身の上話が驚くべきもので、この話がボビーの心の中にぬぐい切れない罪の意識を芽生えさせてしまう。
この第一人称での視点が、中には辛く思えるむきも多いかもしれないが、アマルリックの内面を描き出すモノローグは、時に苦々しく、時に自虐的で、時にパニックに陥り、時にみだらで、どこまでも観客を飽きさせることはない。彼の視界に入ってくる全ての女性(ヘルスケアの女性までも)がボビーの作っていた雑誌から飛び出してきたように若く、美しいことや、海岸ぺりに建つ病院の壁がうっとりとするような海の碧に塗られていることも邪魔にはならない。人間の苦悩の一番底辺の部分を描いているときでも、芸術家から映画監督に転じたシュナーベルは、綺麗な絵を描くのだ。
北フランスの海軍病院に入院したままのボビーを訪ねてくる友人もいる。ローラン(イザック・ド・バンコレ)とルッサン(ニールス・アルストラップ)のふたりなのだが、特にベイルートで捕虜として四年間を過ごしたというルッサンの身の上話が驚くべきもので、この話がボビーの心の中にぬぐい切れない罪の意識を芽生えさせてしまう。
この第一人称での視点が、中には辛く思えるむきも多いかもしれないが、アマルリックの内面を描き出すモノローグは、時に苦々しく、時に自虐的で、時にパニックに陥り、時にみだらで、どこまでも観客を飽きさせることはない。彼の視界に入ってくる全ての女性(ヘルスケアの女性までも)がボビーの作っていた雑誌から飛び出してきたように若く、美しいことや、海岸ぺりに建つ病院の壁がうっとりとするような海の碧に塗られていることも邪魔にはならない。人間の苦悩の一番底辺の部分を描いているときでも、芸術家から映画監督に転じたシュナーベルは、綺麗な絵を描くのだ。
主人公の想像を全て映像に解釈 しかし、溢れる映像素材が主体との親密さを失くす原因に
物語が進むにつれ、視線は広がっていき、観客もボビーの動かないままの姿勢から、外に出される。彼はベッドや車椅子にしばられたまま。しかし、ボビーが始終頭をめぐらし、想像たくましく抑圧や自由のことを考えたり、エンプレス・ユージェニーのことを妄想してみたりすることが全て映像的に解釈される。「今にも爆発しようとしている記憶の数々を芸術に纏め上げている」と、ボビーは書く。そして彼の本は、空想と記憶に埋め尽くされていく。シュナーベルは、そんな人物の状況を妙に現実離れして独創的なエッセイにつむぎ上げようと、情熱を傾ける。
その意味で言えば、『潜水服は蝶の夢を見る』は、1996年の『バスキア』や2000年の『夜になるまえに』といった作品でシュナーベルの描く、苦しめられ誤解されたアーティストの姿に重なる部分もある。しかし、ボビーが彼の芸術を作り上げる一つ一つの文字に苦しんだのに対し、シュナーベルには思い通りに使うことのできる映像素材が底知れぬほどあったという事実が、作品を親密なものというよりは、外側をなでるだけのようなものにしてしまったのだろう。
その意味で言えば、『潜水服は蝶の夢を見る』は、1996年の『バスキア』や2000年の『夜になるまえに』といった作品でシュナーベルの描く、苦しめられ誤解されたアーティストの姿に重なる部分もある。しかし、ボビーが彼の芸術を作り上げる一つ一つの文字に苦しんだのに対し、シュナーベルには思い通りに使うことのできる映像素材が底知れぬほどあったという事実が、作品を親密なものというよりは、外側をなでるだけのようなものにしてしまったのだろう。
スピルバーグ作品に馴染みのあらゆる才能が結集
アマルリックは、束縛され動く範囲を制限された役柄を演じるに完璧な人選であり、映画の間中、片目だけを大きく開け、唇をだらりと下げたままで身動きの取れない男を見事に演じている。また、ボビーの年老いた父を演じたマックス・フォン・シドーとのやり取りが、とてもすばらしい。ボビーに電話をした父親は、電話口の彼が答えられないことに気がつき、受話器を持ったまま嗚咽するのである。
スピルバーグの『ミュンヘン』に参加した多くの才能が、この作品で再会を果たしている。プロデューサーのキャスリーン・ケネディ、俳優アマルリックとクローズ、撮影監督のカミンスキーなどであるが、カミンスキーの撮る映像はここでも、目を見張るものに仕上がっている。ジュリエット・ウェルフリングの編集も、視点に複数の変化があるにもかかわらず、首尾一貫している。
ポール・カンテロンのピアノ音楽も、作品の持つ繊細で、絡みつくような感情のもつれを増幅させる効果を上げている。奥ゆかしさには欠けるところもあるかもしれないが、サントラはU2からトム・ウェイツ、そして『大人は判ってくれない』や『ロリータ』のスコアからも曲を借りてきている。目新しさに溢れるクレジット表示の部分は、シュナーベル本人によるデザイン。
スピルバーグの『ミュンヘン』に参加した多くの才能が、この作品で再会を果たしている。プロデューサーのキャスリーン・ケネディ、俳優アマルリックとクローズ、撮影監督のカミンスキーなどであるが、カミンスキーの撮る映像はここでも、目を見張るものに仕上がっている。ジュリエット・ウェルフリングの編集も、視点に複数の変化があるにもかかわらず、首尾一貫している。
ポール・カンテロンのピアノ音楽も、作品の持つ繊細で、絡みつくような感情のもつれを増幅させる効果を上げている。奥ゆかしさには欠けるところもあるかもしれないが、サントラはU2からトム・ウェイツ、そして『大人は判ってくれない』や『ロリータ』のスコアからも曲を借りてきている。目新しさに溢れるクレジット表示の部分は、シュナーベル本人によるデザイン。



































