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●製作:リチャード・D・ザナック、ウォルター・パークス、ローリー・マクドナルト、ジョン・ローガン 製作総指揮:パトリック・マッコミック 監督:ティム・バートン 脚色:ジョン・ローガン 原作:スティーヴン・ソンドハイム、ヒュー・ウィーラー(ミュージカル “Sweeney Todd: The Damon Barber of Fleet Street” by クリストファー・ボンド)
●出演:ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、アラン・リックマン、ティモシー・スポール、サシャ・バロン・コーエン、ジェイン・ワイズナー、ジェイミー・キャンベル・バウアー、エドワード・サンダース、ローラ・ミシェル・ケリー
●2007年/アメリカ/117分/2008年1月19日より日本公開
●配給:ワーナー・ブラザース
●出演:ジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、アラン・リックマン、ティモシー・スポール、サシャ・バロン・コーエン、ジェイン・ワイズナー、ジェイミー・キャンベル・バウアー、エドワード・サンダース、ローラ・ミシェル・ケリー
●2007年/アメリカ/117分/2008年1月19日より日本公開
●配給:ワーナー・ブラザース
鋭く、そして素早く切り裂くように、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』は、スティーヴン・ソンドハイムの記念碑的な1979年版舞台ミュージカルを見事に満足いく映画へと生まれ変わらせている。さまざまなことが間違った方向に行く可能性があったにもかかわらず、全てがうまく収まっている作品となった。ティム・バートンの集中しきった演出、締めどころをきっちりと締め上げたジョン・ローガンによる脚本、そして何かが乗り移ったような、その上、音楽的にも手馴れたところ見せている主役ジョニー・デップとヘレナ・ボナム=カーターの演技、それら全てに感謝すべきだろう。この映画のために集まった才能が力を発揮したことで、これまでにない最大級の観客たちが、純粋な意味でのソンドハイム・ミュージカル作品を見ることになる。どれほどの数の観客たちか、という問題になると、それはこれから見に来る観客たちが、どれほどまでの量の血に耐えられるかということによるであろうし、見え隠れする高尚さがどれほどまでに一般大衆に嫌われずに済むかということにもよる。しかし、いずれにせよ、この映画を共同製作したドリームワークス、米パラマウント、米ワーナー・ブラザースは、高級で適度に商業的な、おいしい食材をその手にしたといえるだろう。
ソンドハイムのミュージカルを映画として創造性豊かに再構築
作曲家であり作詞家でもあるソンドハイムがこれまでどんなに多くの賞を獲得してきても、その評価が他の追随を許さないものであっても、これまで彼自身の作品が映画となってスクリーンに映し出されることはあまりなかった。それは彼の作品が、知性をもとに知性のために作られ、心の存在が希薄であったという一般的な捉え方が原因となっていることに疑いの余地はない。彼のミュージカルをもとにして作られた映画は、これまでに2作ある(『ローマで起った奇妙な出来事』と “A Little Night Music”)が、お世辞にも舞台版の持つ効果を引き継いでいる作品であるとは言えない。
生粋のブロードウェイ主義者たちは、映画版『スウィーニー・トッド』が曲目の何曲かを割愛し、簡略化していることや、ある意味ドラマの形を変えてしまっていること、そして彼らが大事にしてやまないアンジェラ・ランズベリー演じるところのミセス・ラヴェットが見せたすばらしい演技には遠く及ばないことなどに不満を持つことにはなるだろう。しかし、バートンと彼のチームが作品を映画として創造性豊かに再構築したことに関しては異論の余地はないであろうし、映画的であるという意味において、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』は滑らかに継ぎ目なく展開し、首尾一貫して、そのうえ、活力に満ち溢れている。そこにブロードウェイ版の痕跡を探すことさえ難しい。
生粋のブロードウェイ主義者たちは、映画版『スウィーニー・トッド』が曲目の何曲かを割愛し、簡略化していることや、ある意味ドラマの形を変えてしまっていること、そして彼らが大事にしてやまないアンジェラ・ランズベリー演じるところのミセス・ラヴェットが見せたすばらしい演技には遠く及ばないことなどに不満を持つことにはなるだろう。しかし、バートンと彼のチームが作品を映画として創造性豊かに再構築したことに関しては異論の余地はないであろうし、映画的であるという意味において、『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』は滑らかに継ぎ目なく展開し、首尾一貫して、そのうえ、活力に満ち溢れている。そこにブロードウェイ版の痕跡を探すことさえ難しい。
バートンらしさがしっかり刻み込まれ、暗い物語の核心を伝えきる
そういった美点の裏側には、一点の迷いもなくデザインされたセットや息継ぎをする間もない展開が、作品を芸術の域にまで達していることを強調しているのと同時に、閉塞的な感覚と息苦しさを感じさせてしまうという側面を生んでいることも事実である。他の質的な考察を度外視すれば、この要素が思い出させるのは、60年代以降に生まれたミュージカルの映画化作品の中で何かと議論の絶えない『エヴィータ』に近いということであろう。
控えめなトレードマークでもある型にはまった様式美、そして飛躍的な空想力、彼らしさをしっかりと作品に刻み込んだバートンは、このロンドン下層階級の理髪師を主人公にした物語の闇のように暗い核心を余すところなく伝えきっている。腐敗した判事への復讐心が生んでしまう、他に類を見ない連続殺人鬼。この物語の起源は18世紀だと言われているが、はっきりと記録されているわけではない。その後、19世紀中ごろに舞台ドラマとして脚光を浴び始め、1973年、クリストファー・ボンドの演じる舞台劇の原作となっていたことで、ソンドハイムの目に留まることとなったものである。
控えめなトレードマークでもある型にはまった様式美、そして飛躍的な空想力、彼らしさをしっかりと作品に刻み込んだバートンは、このロンドン下層階級の理髪師を主人公にした物語の闇のように暗い核心を余すところなく伝えきっている。腐敗した判事への復讐心が生んでしまう、他に類を見ない連続殺人鬼。この物語の起源は18世紀だと言われているが、はっきりと記録されているわけではない。その後、19世紀中ごろに舞台ドラマとして脚光を浴び始め、1973年、クリストファー・ボンドの演じる舞台劇の原作となっていたことで、ソンドハイムの目に留まることとなったものである。
ハリウッドの古いホラー映画を思わせる世界観
映画の冒頭、スウィーニー・トッドがオーストラリアの刑務所から逃げ帰り、青年アンソニー(ジェイミー・キャンベル・バウワー)とともにテムズ川を船で上っていく。そこで彼が「No Place Like London」の曲にあわせ伝える苦々しく皮肉的なコメントは、映画の舞台となる「街のこちら側の素顔」をしっかりと定義付けている。プロダクション・デザイナー、ダンテ・フェレッティが見事に再現してみせる、その地域は、狭い道と薄汚い部屋の並ぶ、むさくるしい惨めな場所なのだ。ハリウッドの古いホラー映画を思わせる手法を取り、フェレッティのセット、見事なコンピューター・グラフィックで構築された背景、ダリウス・ウォルスキーのカメラレンズ、コリーン・アトウッドの衣装、そして沈み込んだようなメイクアップ、それら全てを合わせてバートンは本当の意味で白黒映画に近い世界観を作り上げている。そういった要素が重なった中に浮き彫りにされる原色の痕跡‐‐この作品の場合、赤が殆どなのだが‐‐その赤が、灰色と青、白と黒の影が織り成す世界に強いアクセントを残す。
スウィーニー・トッドは、ターピン判事を殺すこと、ただそのひとつの目的を胸にロンドンに戻ってくる。ターピン判事(アラン・リックマン、ファンの期待通り、空恐ろしいほどに腹黒い役を演じている)はスウィーニーに濡れ衣を着せ、投獄した。そうしたことの理由は、この若者のかわいい妻ルーシー、そして幼い娘を彼から奪い去ることであった。
遠い昔の女家主、ずぼらなミセス・ラヴェット(ボナム=カーター)が営む陰気なパイ屋の二階の部屋を借りたスウィーニーは、復讐への思いを研ぎ澄ます。その思いは、絶望からルーシーが自殺してしまったこと、そしてターピンが、いまや十代の女性となったスウィーニーの娘ジョアンナ(ジェイン・ワイズナー)に色目を使い始めていることを知ったことでますます鋭さを増していく。また、ジョアンナは、同じ頃、何も知らないアンソニー(観客の目をデップからも奪ってしまうほどの美貌の持ち主キャンベル・バウアーの映画界での将来はかなり有望なものであろう)の恋心にも火をつけてしまう。
スウィーニー・トッドは、ターピン判事を殺すこと、ただそのひとつの目的を胸にロンドンに戻ってくる。ターピン判事(アラン・リックマン、ファンの期待通り、空恐ろしいほどに腹黒い役を演じている)はスウィーニーに濡れ衣を着せ、投獄した。そうしたことの理由は、この若者のかわいい妻ルーシー、そして幼い娘を彼から奪い去ることであった。
遠い昔の女家主、ずぼらなミセス・ラヴェット(ボナム=カーター)が営む陰気なパイ屋の二階の部屋を借りたスウィーニーは、復讐への思いを研ぎ澄ます。その思いは、絶望からルーシーが自殺してしまったこと、そしてターピンが、いまや十代の女性となったスウィーニーの娘ジョアンナ(ジェイン・ワイズナー)に色目を使い始めていることを知ったことでますます鋭さを増していく。また、ジョアンナは、同じ頃、何も知らないアンソニー(観客の目をデップからも奪ってしまうほどの美貌の持ち主キャンベル・バウアーの映画界での将来はかなり有望なものであろう)の恋心にも火をつけてしまう。
殺人鬼と化す理髪師と、彼を密かに愛する未亡人
スウィーニーの殺人は、誰がロンドンで一番早く、きれいな髭剃りかを決める「決闘」(このシーンはミュージカルになっている)の直後、理髪師仲間、大ぼら吹きのペテン師アドルフォ・ピレリ(サシャ・バロン・コーエン)を切り刻むことから始まる。『ボラット』以降、初めての映画出演となるコーエンは、期待通り二つの訛りを使い分け、とてつもなくカラフルな衣装に身をつつみながら、この大ぼら吹きのペテン師を芝居っけたっぷりに演じきっている。短い出演時間にもかかわらず、強烈な印象を放っている。
ずっと昔からスウィーニーの氷のようなカミソリを人目から隠すように保管し、彼に対する秘めた愛を示し続ける未亡人ミセス・ラヴェットは、スウィーニーが殺めた犠牲者の肉をミートパイに紛れ込ませることで、下宿人の血まみれの活動にすばやく折り合いをつけてしまう。その上、そんな肉の入ったミートパイのおかげで、彼女の店は再び繁盛していく。
そんなことが起こっている中、ターピン判事と彼の邪悪な手下ビードル・バムフォード(やたら丁寧で陰惨さ満点に、ティモシー・スパルがおいしい演技を見せている)は、いらだたしいことにスウィーニーの魔の手をうまくかわして行く。スウィーニーとアンソニーの狙いが彼らの知るところになると、貞淑なジョアンナは、精神病院に収容されてしまう。ミセス・ラヴェットはと言えば、スウィーニーとのほのぼのとした家庭生活が送り続けられることを幸せそうに妄想し始める。
ずっと昔からスウィーニーの氷のようなカミソリを人目から隠すように保管し、彼に対する秘めた愛を示し続ける未亡人ミセス・ラヴェットは、スウィーニーが殺めた犠牲者の肉をミートパイに紛れ込ませることで、下宿人の血まみれの活動にすばやく折り合いをつけてしまう。その上、そんな肉の入ったミートパイのおかげで、彼女の店は再び繁盛していく。
そんなことが起こっている中、ターピン判事と彼の邪悪な手下ビードル・バムフォード(やたら丁寧で陰惨さ満点に、ティモシー・スパルがおいしい演技を見せている)は、いらだたしいことにスウィーニーの魔の手をうまくかわして行く。スウィーニーとアンソニーの狙いが彼らの知るところになると、貞淑なジョアンナは、精神病院に収容されてしまう。ミセス・ラヴェットはと言えば、スウィーニーとのほのぼのとした家庭生活が送り続けられることを幸せそうに妄想し始める。
歌を大切にする舞台経験のない監督による、純粋な映画作品
この狂気への墜落を陰鬱な道徳の物語に書き上げたのは、ソンドハイムとヒュー・ウィーラー。それを映画スクリーン向けにコンパクトに纏め上げ、3時間あったものを2時間に見事に収めたのは脚本家ローガンの手柄と言える。必要なときに限れば、セリフはそこにあるものの、内容と物語の大半は歌によって伝えられている。その歌自体が時に‐‐詩の一部を取り除くなどして‐‐簡略化されているために、インパクトという意味では少々物足りないものになってしまっている。
監督バートンは、几帳面さと流麗さをもって歌の場面を演出できている。そのほとんどが一人芝居か2人の間での出来事に限られており、いわゆる伝統的な意味合いでの舞台歌劇的なものではなかったので、監督はクロースアップを多用し、その内容の意味するところと、それを促進する動きだけを強調するといったドラマの部分を演出するようなアプローチをとっている。歌を歌う場面は、これまでのバートンの作品でも大きな役割を果たしてきた(最近の作品『チャーリーとチョコレート工場』でも特にその傾向は顕著)。このことが、舞台演出経験のない監督の手によって、純粋にオリジナル作品の意図を汲み取った映画作品が出来上がってしまうという、うれしい出来事を引き起こしている。
監督バートンは、几帳面さと流麗さをもって歌の場面を演出できている。そのほとんどが一人芝居か2人の間での出来事に限られており、いわゆる伝統的な意味合いでの舞台歌劇的なものではなかったので、監督はクロースアップを多用し、その内容の意味するところと、それを促進する動きだけを強調するといったドラマの部分を演出するようなアプローチをとっている。歌を歌う場面は、これまでのバートンの作品でも大きな役割を果たしてきた(最近の作品『チャーリーとチョコレート工場』でも特にその傾向は顕著)。このことが、舞台演出経験のない監督の手によって、純粋にオリジナル作品の意図を汲み取った映画作品が出来上がってしまうという、うれしい出来事を引き起こしている。
役柄の複雑さを際立たせる主役二人の暗い容姿
大多数の好奇心が、特に、ジョニー・デップがボーカルを自分でやっているのだろうかということと、歌はどうだったのだろうかという疑問に向かうのは必然だろう(歌を歌った登場人物は、すべて自分の声で歌を歌っている)。答えは、とてもうまくやってのけている、である。何をやらしても才能のあるこの俳優は、レックス・ハリソンやリチャード・バートンが得意技とした半分話しているような中途半端な歌い方をしているわけではなく、聞き取りやすい声ですべての曲の詞の意味を効果的に伝えることに成功している。
同じことがボナム=カーターにも言える。歌手としてのボーカル・トレーニングを受けているのではないのだろうが、デップと同様に歌を通して彼女の役柄を伝えきることに成功している。デップとボナム=カーターに共通し、2人が作品を通じて表現しているのは深く押さえ込まれた感情、そして熱を帯びた動機である。また彼らの不気味な表情‐‐どこまでも暗く陰鬱な目、流れ落ちるような黒い髪、繊細な顔の作り、落ち窪んだ頬、誇張された唇、細い体躯‐‐そういったもの全てが彼らの演じる役柄の複雑さを際立たせる。ある場面では、2人があまりに青白い顔をしているので、2人とも白塗りをしているのかと思ってしまったほどだ。
同じことがボナム=カーターにも言える。歌手としてのボーカル・トレーニングを受けているのではないのだろうが、デップと同様に歌を通して彼女の役柄を伝えきることに成功している。デップとボナム=カーターに共通し、2人が作品を通じて表現しているのは深く押さえ込まれた感情、そして熱を帯びた動機である。また彼らの不気味な表情‐‐どこまでも暗く陰鬱な目、流れ落ちるような黒い髪、繊細な顔の作り、落ち窪んだ頬、誇張された唇、細い体躯‐‐そういったもの全てが彼らの演じる役柄の複雑さを際立たせる。ある場面では、2人があまりに青白い顔をしているので、2人とも白塗りをしているのかと思ってしまったほどだ。
主役と悪役、どちらがアンチヒーローか
もうひとつの印象的な関係性は、スウィーニーと彼の不倶戴天の敵、リックマン演じるところの絞首刑の判決ばかりを出したがる判事との間で織り成されるものだ。ともに同じ考え方を持ち、厳格な罰を下すという自らの性質を正当化している。その視点は、全ての人間は人生において死に値する過ちを何か犯している、ということに根ざしている。どちらがアンチヒーローか、それとも悪役か。そのどちらにしても、彼ら2人が問題の元凶であることは紛れもない真実である。
狭く、あくまでも重苦しく決定的で、そう、その上どこまでも血まみれな(R指定を受けてしまうに十分すぎるほどの量である)作品の本質が、ある意味でワクワクした気持ちを沈黙させてしまうのだろうが、本作品のプロデューサー、リチャード・ザナック、ウォルター・パークス、そしてローリー・マクドナルド(そして、監督と出演俳優を承認したソンドハイム)は、この映画の製作にかかわった全ての人間が役割ごとに正しい人材であったことを確実にしたことだけでも賞賛に値する。
狭く、あくまでも重苦しく決定的で、そう、その上どこまでも血まみれな(R指定を受けてしまうに十分すぎるほどの量である)作品の本質が、ある意味でワクワクした気持ちを沈黙させてしまうのだろうが、本作品のプロデューサー、リチャード・ザナック、ウォルター・パークス、そしてローリー・マクドナルド(そして、監督と出演俳優を承認したソンドハイム)は、この映画の製作にかかわった全ての人間が役割ごとに正しい人材であったことを確実にしたことだけでも賞賛に値する。











































