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パンくず式ナビゲーション

完璧なプロ意識、しかし何かが高みに達せず

トッド・マッカーシー
2008/02/02

●製作:ブライアン・グレイザー、リドリー・スコット 製作総指揮:ニコラス・ピレッジ、スティーヴン・ザイリアン、ブランコ・ラスティグ、ジム・ウィテカー、マイケル・コスティガン 共同製作:ジョナサン・フィリー、サラ・ボーウェン 監督:リドリー・スコット 脚本:スティーヴン・ザイリアン (原案:マーク・ジェイコブソン “The Return of Superfly”)
●出演:デンゼル・ワシントンラッセル・クロウ、キウェテル・イジョフォー、キューバ・グッディングJr.、ジョシュ・ブローリン、テッド・レヴィン、アーマンド・アサンテ、クラレンス・ウィリアムス3世、ジョン・オーティス、ルビー・ディー
●2007年/アメリカ/157分/2008年2月1日より日本公開
●配給:東宝東和

娯楽映画としては成立、しかし偉業とは言えない

 『アメリカン・ギャングスター』が、とてつもなく大掛かりな犯罪映画になりたがっていることはあまりに明白である。懸命にそうなろうとしていることは、誰にでも分かる。中核をなす話は実話であり、70年代ハーレムの麻薬王の隆盛、衰退、贖罪を描く。もっと早く、ずっと以前に映画化されなかったのが不思議だったと思わせるほど、その部分は文句なくすばらしい。ギャングスターと刑事、この激しくやりあう2人それぞれをデンゼル・ワシントンとラッセル・クロウに演じさせてもいる。今日の映画界で、これ以上の組み合わせを見つけるのは、はっきりいって困難であろう。さまざまな要素が重なり合い、米ユニバーサル映画が配給する、この大掛かりで膨れ上がった作品が、折に触れて観客を夢中にさせ、ワクワクもさせ、娯楽として十分に成立していることには疑いはない。商業的にも大ヒットする態勢に入っている。しかし、偉業かということになると、やはり、そうとは言えないのである。

プロ意識は感じられるものの、本物らしさに欠ける演出

 この映画を見ていると、貼り付けられたバナー広告のように、さまざまな名作映画の記憶がちらついてしまう。『ゴッドファーザー』や『セルピコ』、『プリンス・オブ・シティ』や『スカーフェイス』、『グッドフェローズ』といった近代犯罪映画の金字塔が成し遂げた偉業を称えているかのようでもある。そういった過去の映画がそうであったように、この作品も典型的なニューヨークの物語を扱っている。シドニー・ルメットが手がける名作の基礎をなしてもおかしくないと思えるようなものだ。本作『アメリカン・ギャングスター』が、全てのレベルで完璧なプロ意識のもとに作られていることに疑いの余地はない。だがしかし、何かが本物ではないという感じがしてしまう。物語を伝えることはできているのだが、何かが高みに達していないのだ。

 マーク・ジェイコブソンによるニューヨーク・マガジンの記事をもとにした物語が描く弧は、あまりに扇情的で、あらすじだけでも膨大なものになってしまうのは、いた仕方がないところだろう。ハーレム犯罪社会の手先でしかなかったフランク・ルーカスが、ヴェトナム戦争の真っ只中、東南アジアから混ぜ物なしのヘロインを直接持ち帰ることに成功し、麻薬王にのし上がるという前段部分。脚本が語る物語を借りれば、フランクがのし上がっていく過程に常に付きまとっていたのが、賄賂におぼれることのない労働者階級出身の連邦捜査官リッチー・ロバーツであり(この捜査官は、ジェイコブソンの記事には一度も登場しない)、その捜査の結果、4人に3人までが分け前をもらっていたニューヨーク市警の麻薬取締官たちに鉄槌が下されたという筋書きである。

正真正銘の激しさと、大げさな要素が混在する脚本

 スティーヴン・ザイリアンによる脚本がしていることは、物語をもっともらしく、二つの平行線の上に展開させていることである。物語が終わりに近づく段になってようやく出会う2人の男、この2人の男が出会うまでを執拗に追いかけていく。複雑で多面的な物語を理路整然と展開するには、理にかなっていて、職人技ともいえるやり方ではあるのだが、その実、正真正銘の激しさと大げさになってしまった要素を同程度に扱ってしまうという結果ももたらしてしまっている。監督リドリー・スコットも脚本のそういった部分を踏襲してしまっている。

 主人公2人の対比は、うまく設定できている。伝説的なハーレムのギャング、バンピー・ジョンソン(クラレンス・ウィリアムス3世、文句なし!)の運転手兼集金係りでしかなかったフランク(デンゼル・ワシントン)は、1968年、彼の雇い主の死でできた空席を奪い取ることを足がかりに、名を上げていく。彼のしたことは、タイのジャングルに直接赴き、陸軍に身を置く身内の助けを借りながら、100キロにおよぶ混じり気なしのヘロインを軍用機に乗せてアメリカ本土に持ち帰るというもの。仲買人を排除し、競合の価格よりもずっと安くなったフランクの上物のヘロインは街中に溢れかえり、彼のもとに莫大な利益をもたらす。

 派手派手しく大ぼらを吹きまくるピンプ風のスタイルが全盛の時代にあって、フランクは意外なほどに控えめな自分を演出する。着るものは保守的で、毎朝早い時間にたった一人地元のダイナーに通い朝食を食べ、自分自身の売り物には決して手を出さない。しかしひとたび裏切り者が出ると、彼は白昼、自らの手でそんな連中をためらうことなく消し去っていく。

 その一方、リッチー(ラッセル・クロウ)は離婚により精神的な苦痛も味わい、それでも麻薬ディーラーを追っていないときは法律の学位をとるために勉強をするような、汗をかき、生きていくために懸命に努力するタイプのニュージャージー出身の男なのである。あるとき、彼はスーツケースに数百万ドルの現金を持った数人の男たちを現行犯逮捕するが、手にした現金を、そのまま警察に届け出ると言い張り、警察内でも例外的に正義感が強い男ということで疎まれ始める。

対照的な主人公2人が出会うまでを追うストーリー

 目に見える敵もほとんどいない状況の中、フランクはニューヨーク中に麻薬と犯罪を蔓延させ、手に余るほどの利益を集めていく。作品は、自力でそこまで駆け上がった起業家を糾弾するわけでも、必要以上にブラックエクスプロイテーションのスタイルで美化することもなく(実際のフランク・ルーカスは、人づてに伝えられている姿だが、ダンゼル・ワシントンが演じる役が見せる姿よりずっとけばけばしかったということである)、そういった倫理的な問題を突き抜け、物語は金持ちの街に向かう急行列車のように猛スピードで展開していく。

 フランクの帝国はますます巨大になって行き、彼はノース・キャロライナから5人の弟たちを呼び寄せる。彼はまた、丘の上の白い豪邸に、貧しい暮らしを続けていた母(ルビー・ディー)を誇らしげに招き入れる。その後、1970年度のミス・プエルトリコと出会い、結婚。敵対関係になりそうな相手とは、時に、ある程度の距離をおき(アーマンド・アサンテ扮するイタリア系マフィアのボスはフランクの稼ぎを奪い取ろうと必死になる)、時に激しくやりあいながら(キューバ・グッティングJr.扮するニッキー・バーンズは実在したハーレムのギャング、フランクと激しくぶつかり合った)、フランクは再びタイに舞い戻り、彼の生涯最も野心的なものとなる密輸の仕組みを完成させる(作品の中で紹介される方法は、実在のフランクが生涯の最高傑作として企てた密輸の仕組み、彼の仕業であろうと目されているものと比べると、そこまでアッと驚くようなものになっていない)。

 ニューヨーク市警を迂回する戦術として、連邦警察は彼ら自身の麻薬捜査の指揮を取らせるためにリッチーを雇い入れる。この動きが原因でミスター・クリーン、リッチーはやり手のトルーポ刑事(ジョシュ・ブローリン)とやりあう羽目になる。このやり取りは、作品の中で最も激しいぶつかり合いである。麻薬がらみの犯罪で得られた利益からの分け前を受け取る資格が自分にはあるという恥知らずな考え方をトルーポは持っている。法律をまったく無視したその態度は、開いた口がふさがらないほど、ふてぶてしい。このとんでもない厄介者をブローリンは徹底的に演じきっているわけだが、ワシントンやクロウら主役を完全に食ってしまっているシーンもある。本作品と、そして『ノーカントリー』で見せたすばらしい演技で、ブローリンが大物たちの仲間入りを果たしたことは間違いがないだろう。

主役2人の演技が作品のボルテージを最高潮へと上げる

 しかしなんと言っても本作品、最大の見せ場はリッチーが大掛かりな家宅捜索でフランクの工場を押さえ、狙った獲物をついに捕らえた後、主役の2人ワシントンとクロウが小さな部屋で机をはさみ、ついに合間見えたときにやってくる。このとき『アメリカン・ギャングスター』のボルテージは最高潮に達する。彼らのやり取りで披瀝されるのは、2人のすばらしい俳優による賢明にも控えめな演技がなおさら、その場面を面白くしているという事実である。最高の相手に対峙し、双方ともなお一層の底力を見せているといったところなのだろう。

 にもかかわらず、そこには一抹の皮肉が見え隠れする。すばらしい演技を見せるクロウではあるが、フランクを追い詰める、執拗でユダヤ人労働階級出身の男を演じるには彼は配役ミスである。フランクに対抗する役をクロウのように評価の高い俳優に演じさせることは、映画のバランスをとるには有益なことなのであろう。しかし、この役はクロウがこれまで出演じてきた役柄の中でも、珍しいことに、何も特別なものをもたらすことがなく、彼のカリスマ性がまったく活かされていない役柄のひとつに終わってしまっている。

 同じように起用ミスとなってしまったのは、監督スコットである。彼が最も得意とし、力を発揮するのは、過去や未来のように大きくかけ離れた世界を大きな視点で捉え命を与えることで、現代的な現実主義を描き出すことではない。ぎらぎらした大都市の物語を最大限に活かすには、何千という小さな事柄を繋ぎ合わせ、信憑性を高めることが要求される。世界に冠たる映画監督であるスコットも、この範疇だけは力を発揮できていない。それは、ルメットやスコセッシに、70年代のニューカッスル(北部アイルランド)の犯罪についての決定的な映画を撮ってほしいと頼むことに通ずるものがある——そう頼まれれば、それ相応の面白い作品を仕上げてくることはできるのであろう。しかし、だとしても、深いところで真実味のある作品にはおそらくならない、ということなのだろう。

最高の演技、だが、作品は冗漫な出来

 そうは言っても、フランク・ルーカスに扮するワシントンの何事にも動じない演技が作品を成立させていることに間違いはない。生涯一度も学校に通ったことがない、ストリート育ちの詐欺師であるという印象を完全に出し切れてはいないかもしれないが、ワシントンは、この驚くべき、どこまでも確かに矛盾だらけの男を演じきっている。その男は、冷徹なビジネスマンにして激しやすい殺人者であり、孤独な人間でありながら家族を大事にし、愛想のいい男であると同時に社会に対する災いのもとなのである。

 青の色味にあふれ、機能的な撮影であるにもかかわらず、撮影監督ハリス・サヴィデス(『ゾディアック』)のいつものすばらしい仕事に比べれば、本作品での仕事は多少がっかりさせられるものになってしまっている。作品全体でいえば、そこそこの勢いを保ってはいるものの、やはり少し冗漫に感じてしまうことは否めない。

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