『魔法にかけられて』
●製作::バリー・ソネンフェルド、バリー・ジョセフソン 製作総指揮:クリス・チェイス、サニル・パーカシュ、エズラ・スワードロウ 監督:ケヴィン・リマ 脚本:ビル・ケリー 作詞作曲:アラン・メンケン、スティーヴン・シュワルツ 音楽:アラン・メンケン 音楽監修:ドーン・ソーラー
●出演:エイミー・アダムス、パトリック・デンプシー、スーザン・サランドン、ジェームズ・マースデン、レイチェル・カヴィ、ティモシー・スポール、イディナ・メンゼル、サマンサ・アイヴァース、ジュリーアンドリュース(ナレーション)
●2007年/アメリカ/108分/3月14日(金)より日本公開
●配給:ウォルト ディズニー スタジオ モーション ピクチャーズ ジャパン
●出演:エイミー・アダムス、パトリック・デンプシー、スーザン・サランドン、ジェームズ・マースデン、レイチェル・カヴィ、ティモシー・スポール、イディナ・メンゼル、サマンサ・アイヴァース、ジュリーアンドリュース(ナレーション)
●2007年/アメリカ/108分/3月14日(金)より日本公開
●配給:ウォルト ディズニー スタジオ モーション ピクチャーズ ジャパン
『メアリー・ポピンズ』を想起させる
ディズニー映画、興行的にも大きな期待
『魔法にかけられて』、本作品はまさに題名にたがわず、魔法にかけられたような作品に仕上がっている。本格的なミュージカルである上に、ディズニーの専売特許であるアニメーションの世界と、現実の世界を行き来する物語をとても賢明に、とても優雅に描いた本作を見て思い出されるのは、ディズニー作品の中、何はさておき『メアリー・ポピンズ』ということになるだろう。43年前のジュリー・アンドリュースがそうであったように、本作品の主演エイミー・アダムスから『スター誕生』を予感させるオーラが存分に湧き立っていることも、大きな理由である。二つの作品を比べていけば、もちろん議論はその人気、認知度ということにたどり着くわけだが、ご心配なく、新しい作品もまた、どんな時代のどんな観客をも喜ばせるような作品となっており、公開を迎えた後の長い旅の果てには、夢のような興行成績が待っているかもしれない。
おとぎ話のアニメキャラたちを
現実のマンハッタンに放り込む奇抜な発想
ビル・ケリーによる巧みな脚本の芯となっている奇抜な発想は、ディズニーがもっとも信頼を寄せるおとぎ話の主人公たち——夢見る王女、矢のように一本気な王子、意地悪な女王、そして愛らしく跳び回る様々な生き物たちといった面々——を、彼らの住む牧歌的で自然がいっぱいな舞台から取り出し、マンハッタンのど真ん中に投げ込んでみたらどうなるか試しているところである。ニューヨークのど真ん中に、と言ってみても、登場人物たちが『ミーン・ストリート』や『110番街交差点』のような状況に投げ込まれ、危険な目に遭遇するということではない。派手な中世の服装に身を包み、彼らが揃ってマンハッタン劇場街のマンホールから飛び出してきても、その様子を見ているたくさんの通行人たちは、不思議なことに、彼らがディズニーのブロードウェイ公演から逃げ出してきた役者たちだとすら思わないという具合である。ブロードウェイ公演といえば、『魔法にかけられて』も近い将来、そうなることはほぼ確実だろう。
古典的なヒロイン、王子、悪い女王らが
生み出す現実世界とのギャップ
最早古典的ともいえる手描きの手法で楽しくアニメーションとして描かれた冒頭の12分間、思いつく限りの由緒正しいディズニー的な物語要素を詰め込むだけ詰め込んで、かわいらしいパロディーとしての基調トーンが設定され、展開していく。アンダレーシアという、どう見ても動物たちの人口過多に苦しんでいるとしか思えないような架空の国。そこに住む、どこをどう取っても純粋なヒロイン、ジゼルは、「真実の愛のキス」という唄をうたいながら、女王ナリッサの息子、エドワード王子がすぐにやってきて、そのキスをしてくれることを夢見ている。エドワード王子が結婚してしまうことで王位を降りることを嫌がる女王ナリッサは、恐ろしい老婆に変身し、ジゼルを井戸に突き落としてしまう。そのためジゼルは、「その後いつまでも幸せに暮らしました」というエンディングがやってこない世界へと追いやられてしまう。
マンハッタンの喧騒とコンクリートと大混雑、やってきたジゼル(エイミー・アダムス)はただ目を見張るばかりで、何をどうしていいか見当もつかない。もちろん、使えるお金は1セントももっていない。とんでもないほど大きな張り骨の入ったウェディングドレスに身を包み、当てもなく街をさまよう彼女は、バワリー通りあたりで雨に降られ、ずぶぬれになってしまう。それを見つけたのは、6才になるモーガン(レイチェル・カヴィ)である。彼女の父ロバートは、自分自身も離婚経験のある、離婚訴訟専門の弁護士で、困り果てたジゼルを助け、彼らのアパートメントに一晩だけ彼女を泊めてあげることにする。懸念材料は、彼が自分のガールフレンド、ナンシー(イディナ・メンゼル)にプロポーズをしようとしていたということだ。
マンハッタンの喧騒とコンクリートと大混雑、やってきたジゼル(エイミー・アダムス)はただ目を見張るばかりで、何をどうしていいか見当もつかない。もちろん、使えるお金は1セントももっていない。とんでもないほど大きな張り骨の入ったウェディングドレスに身を包み、当てもなく街をさまよう彼女は、バワリー通りあたりで雨に降られ、ずぶぬれになってしまう。それを見つけたのは、6才になるモーガン(レイチェル・カヴィ)である。彼女の父ロバートは、自分自身も離婚経験のある、離婚訴訟専門の弁護士で、困り果てたジゼルを助け、彼らのアパートメントに一晩だけ彼女を泊めてあげることにする。懸念材料は、彼が自分のガールフレンド、ナンシー(イディナ・メンゼル)にプロポーズをしようとしていたということだ。
発想だけで引っ張ることをせず、
優れたミュージカルという側面もプラス
アニメーションの世界からやってきた人物が、現実の世界に驚いたり、場違いな反応を見せたりしても興味を長続きさせられないことを知っているかのように、「歌ってお仕事」という、ご存知「口笛吹いて働こう」のとても楽しい編曲に乗せて、映画はすばやくとっておきのミュージカルへと移行していく。朝になり、ロバートの家の中の散らかりようを目の当たりにしたジゼルは、部屋の片付けを頼むため街中の動物たちを総動員する。家はすぐに、すばらしいコンピューター・グラフィックスで描かれた鳩やドブネズミ、家ねずみ、ゴキブリたちで埋め尽くされ、彼らは懸命に部屋をあるべき姿に戻していく。
現実世界に住むロバートとの
関係の中でジゼルの気持ちに変化が
程なくして、少々自慢が過ぎるエドワード王子も刀を片手に、愛するジゼルを救うためマンハッタンにやってくる。そのあとをつけてくるのは、女王の雑役係ナサニエル(ティモシー・スポール)。恰幅のいい彼は、ジゼルを無きものにしようとさまざまな試みを企てるが、何をやってもうまく行かず、ただ滑稽なだけ。もうひとり(もう一匹)アンダレーシアからやってくるのはとんでもなくハイパーなシマリスで、彼はエドワードに何をしたら良いか伝えようとするのだが、このコミュニケーションは何度やってもうまく行かない。
ニューヨークにやってきたばかりのジゼルは、彼女の王子様だとか真実の愛だとか、おとぎ話の世界の話ばかりを繰り返す。それに対するロバートの意見は当然ながら、「まるで記念日に贈るグリーティング・カードの世界から抜け出してきたみたいだ」というもの。不運な状況にありながら彼女の話すことは、どこまでも甘く、軽やかで、思わずロバートは、おとぎ話の王子様が出てきて、彼女を救ったりしないと言ってしまい、彼女を怒らせてしまう。生まれて初めて怒りの感情を覚えたジゼルに変化が生まれる。現実的でより多面的な人物になっていく彼女。その変化は、彼女とロバートの気持ちが絡み合うことでより複雑なものになっていってしまう。
ニューヨークにやってきたばかりのジゼルは、彼女の王子様だとか真実の愛だとか、おとぎ話の世界の話ばかりを繰り返す。それに対するロバートの意見は当然ながら、「まるで記念日に贈るグリーティング・カードの世界から抜け出してきたみたいだ」というもの。不運な状況にありながら彼女の話すことは、どこまでも甘く、軽やかで、思わずロバートは、おとぎ話の王子様が出てきて、彼女を救ったりしないと言ってしまい、彼女を怒らせてしまう。生まれて初めて怒りの感情を覚えたジゼルに変化が生まれる。現実的でより多面的な人物になっていく彼女。その変化は、彼女とロバートの気持ちが絡み合うことでより複雑なものになっていってしまう。
クリエイティブなスタッフの自信に満ち、
古き良きハリウッド作品の品格を受け継ぐ
ケリーの脚本、そしてケヴィン・リマの演出が飛びぬけて才気に溢れているということではないにしろ、映画を支える裏方のクリエイティブな力は、大衆的な娯楽作品を作るうえで揃って抜け目なく、自信に満ち溢れ、とても賢明であるといえる。ディズニーが得意とする100%アニメーションの映画よりも、「魔法にかけられて」は、良い意味で1960年代までにハリウッドで作られていた王道の作品の品格を受け継いでいるし、全体的な観客層に向けられて作られている作品であるといえる——ニッチな観客層など、くたばれといわんばかりである。本作品の目指すところは、迎合することなく、下品にならず、ポップカルチャーの流行におもねることなく、とにかく観客を楽しませようとするもので、今日これをやり遂げるのは考える以上に大仕事なのである。
ジュリー・アンドリュースのブレイク時を思わせる
愛される女優、エイミー・アダムスの誕生
しかし、そういったことを良く分かっている制作スタッフがいて、アラン・メンケン、スティーヴン・シュワルツによる魅力的な楽曲(5曲ものオリジナル書き下ろし作品が含まれている)に恵まれ、タッチの鋭いアニメーション、洒落たニューヨークのロケーション撮影、そして動物たちによる思いもかけないほどの素晴らしいギャグが散りばめられるなど、他の全ての要素が揃っていたとしても、この映画を、エイミー・アダムスなしで語ることは出来ない。彼女がいてこその映画といっても過言ではない。『メアリー・ポピンズ』や『サウンド・オブ・ミュージック』に出演するために、ジュリー・アンドリュースが生まれ出てきたように、アダムスもまた最高に美しく、愛される女優として冠を受けるため、どこからともなく生まれ出てきたように見える(過去作品『ジューンバッグ』で見せた、すばらしい演技があるにしても、ということにしておこう——また、本作品のオープニングとエンディングに、ジュリー・アンドリュースが招かれ、短いナレーションを入れているのも、ちょっとしたことだがとてもいい感じになっている)。
生まれながらにミュージカルとコメディー役者の資質に恵まれ、それを後押しするような愛らしい声を持つ、赤毛で輝くような目をしたアダムスは、服装や髪が乱れれば乱れるほど、かわいらしさをましていき、彼女が見せるコメディーの資質は、キャロル・ランバードやルシル・ボールといった名声不朽の先達を思い出させる。彼女の演じるジゼルが純粋さの代弁者として完璧な説得力を持つことは彼女の本質的に楽観的な世界観からしても、これ以降長い間、誰も異議を唱えるものはいないであろうし、彼女が現実の女性、そう呼べればということだが、として花開くとき、感情的な側面も開花していくのが手に取るように分かるのも全くうなずける。まさに文字通り、魔法にかけられて、という状態である。
生まれながらにミュージカルとコメディー役者の資質に恵まれ、それを後押しするような愛らしい声を持つ、赤毛で輝くような目をしたアダムスは、服装や髪が乱れれば乱れるほど、かわいらしさをましていき、彼女が見せるコメディーの資質は、キャロル・ランバードやルシル・ボールといった名声不朽の先達を思い出させる。彼女の演じるジゼルが純粋さの代弁者として完璧な説得力を持つことは彼女の本質的に楽観的な世界観からしても、これ以降長い間、誰も異議を唱えるものはいないであろうし、彼女が現実の女性、そう呼べればということだが、として花開くとき、感情的な側面も開花していくのが手に取るように分かるのも全くうなずける。まさに文字通り、魔法にかけられて、という状態である。
脇を固める俳優陣も好演
圧巻はセントラル・パークでの大ミュージカルシーン
テレビドラマ「グレイズ・アナトミー」の成功で、大スクリーンに戻ってきたパトリック・デンプシーも、思わず応援したくなる悩める独身の父親を地味ながら好演している。ジェームス・マースデンも、アダムス同様、素晴らしい歌声を披露し、自分のことばかり考えている王子様を演じて、自分も楽しみながら作品にも楽しさを与えてくれている。スーザン・サランドンも、ジゼルをさっさと片付けるために自らニューヨークにやってくる女王を、『101匹わんちゃん』のクルエラ風モード全開で熱演している。リック・ベイカーが彼女に施したクライマックスでのオバタリアン・メイクは、文句なくものすごい。
製作面、実装面でも巧妙な本作品は、その背景にマンハッタンの街を存分に使いきっている。旅行者向けの景観ばかりという意見もあるだろうが、それも、主人公がこの街に初めてきた人物であることを考えれば、この作品には合っているのかもしれない。数え切れないほどの車とエキストラを配しての大規模なシーンの数々は、あの街の交通を何日にも渡って妨げたことであろうし、ブルックリン橋、アッパー・ウエスト・サイド、コロンブス・サークルなどの場面での撮影も、さぞかし大変であっただろうと思われる。
その中でも最も驚くべきものは、どこまでも続くと思われる劇中楽曲「想いを伝えて」の部分の撮影なのであるが、この部分に至ってはセントラル・パークの様々な区画をまたぐように、何十人ものミュージシャンやダンサー、通行人を交えて大々的に行われている。このような大規模なミュージカル・ナンバーを伝統的なかたちで撮影した作品は60年代以降、思いつかないので、これは必見である。この作品のほかの部分もそうであるが、このシーンも、その発想を遠い過去のものから取り入れ、再び新しいものとして感じさせてくれるのである。
製作面、実装面でも巧妙な本作品は、その背景にマンハッタンの街を存分に使いきっている。旅行者向けの景観ばかりという意見もあるだろうが、それも、主人公がこの街に初めてきた人物であることを考えれば、この作品には合っているのかもしれない。数え切れないほどの車とエキストラを配しての大規模なシーンの数々は、あの街の交通を何日にも渡って妨げたことであろうし、ブルックリン橋、アッパー・ウエスト・サイド、コロンブス・サークルなどの場面での撮影も、さぞかし大変であっただろうと思われる。
その中でも最も驚くべきものは、どこまでも続くと思われる劇中楽曲「想いを伝えて」の部分の撮影なのであるが、この部分に至ってはセントラル・パークの様々な区画をまたぐように、何十人ものミュージシャンやダンサー、通行人を交えて大々的に行われている。このような大規模なミュージカル・ナンバーを伝統的なかたちで撮影した作品は60年代以降、思いつかないので、これは必見である。この作品のほかの部分もそうであるが、このシーンも、その発想を遠い過去のものから取り入れ、再び新しいものとして感じさせてくれるのである。
































