
(c)Mobra films 2007
●監督:クリスティアン・ムンジウ プロデューサー:オレグ・ムトゥ、クリスティアン・ムンジウ(モブラ・フィルムズ) 脚本:クリスティアン・ムンジウ 撮影:オレグ・ムトゥ 編集:ダナ・ブネスク 美術:ミハエラ・ポエナル
●出演:アナマリア・マリンカ、ローラ・ヴァシリウ、ヴラド・イヴァノフ、アレクサンドル・ポトチェアン、ルミニツァ・ゲオルジウ、アディ・カラウレアヌ
●2007年/ルーマニア/カラー/ドルビーSR/113分/2008年3月1日より銀座テアトルシネマほか全国にて日本公開
●配給:コムストック・グループ
●出演:アナマリア・マリンカ、ローラ・ヴァシリウ、ヴラド・イヴァノフ、アレクサンドル・ポトチェアン、ルミニツァ・ゲオルジウ、アディ・カラウレアヌ
●2007年/ルーマニア/カラー/ドルビーSR/113分/2008年3月1日より銀座テアトルシネマほか全国にて日本公開
●配給:コムストック・グループ
完璧な流れ、そしてすばらしい演技、『4ヶ月、3週と2日』は、まさに息を飲む偉業としか言いようがない。純粋さと誠実さをもって演出された本作品は、その核に、法律で禁じられていた中絶に関する物語を携えているだけでなく、ソ連圏諸国における最後の日々の中で、これまであまり語られることのなかった、生き残るために必要な日々の取り組み、静かな戦いをしっかりと描き出している。長回しのテイク、抑制の効いたカメラの動き、日々の暮らしの中で交わされるリアルな会話を聞き捉える驚くべき聴覚‐‐そういった、ルーマニア映画界における新しい要素の全てを見せつけながら、クリスティアン・ムンジウが監督をつとめた見事な一作は、物語を美しく織りなしてみせる。あえて言うならば、外してしまった音はただひとつだけ。映画界におけるルーマニアの新しい卓越性をさらに強く証明している本作は、合衆国においても、またヨーロッパのアート系映画館においても、見識のある観客たちの多くを魅了することになるであろう。
『ラザレスク氏の最期』に向けられた敬意と同等のものをもって語られることが確かなこの作品、撮影監督も同作品と同じくオレグ・ムトゥであり、誰も予測していなかったヒットであったことからも、「輝かしい日々からの物語」という皮肉な題名で呼ばれるシリーズの第一作目と想定されている作品である。ムンジウ監督が目指したものは、深く、真実をしっかりと見つめた人間味あふれる物語をとおし、チャウシェスク時代において強いられていた、ただもううんざりとしながら命を削っていった生活が持つ、圧倒的な重圧感を視覚化することである。もしこの作品を判断の基準とするならば、ムンジウが「都市伝説」と呼ぶものは、肉体に対してではなく魂に刻み込まれる小さな切り傷を描き出す何千という物語の中から選ばれた、都市における悲劇に、より近いものであると言える。
『ラザレスク氏の最期』に向けられた敬意と同等のものをもって語られることが確かなこの作品、撮影監督も同作品と同じくオレグ・ムトゥであり、誰も予測していなかったヒットであったことからも、「輝かしい日々からの物語」という皮肉な題名で呼ばれるシリーズの第一作目と想定されている作品である。ムンジウ監督が目指したものは、深く、真実をしっかりと見つめた人間味あふれる物語をとおし、チャウシェスク時代において強いられていた、ただもううんざりとしながら命を削っていった生活が持つ、圧倒的な重圧感を視覚化することである。もしこの作品を判断の基準とするならば、ムンジウが「都市伝説」と呼ぶものは、肉体に対してではなく魂に刻み込まれる小さな切り傷を描き出す何千という物語の中から選ばれた、都市における悲劇に、より近いものであると言える。
ある女子学生の窮地をサポートする友人と、怪しい医師
ムンジウは、それぞれのシーンを1テイクのカメラワークで描き出している。カメラは、登場人物たちがフレームの中を行き来する姿を定点から捉えるか、歩き去る彼らを追いかけるようにしか捉えていない。1987年、大学の寮のルームメイトであるガビツァ(ローラ・ヴァシリウ)とオティリア(アナマリア・マリンカ)は、その日その日のやりくりに追われて生活をしている。その時点でなぜ全てが麻痺してしまったようにガビツァが不安に駆られているのかは判然としないが、彼女は部屋の中に引きこもり、より現実的なオティリアが、同級生や彼女のボーイフレンド、アディ(アレックス・ポトチェアン)から石鹸やタバコ、金銭などを時には金で、時には物々交換で集めていく。
大学の寮から、オティリアはガビツァが部屋を予約しておいたホテルへと向かう。しかし、不親切なホテルのフロントは、予約など入っていないと言い張り、オティリアは他の場所を探さなくてはならない羽目になる。ようやくその場所を見つけ、彼女は待ち合わせの場所に行き、べべ氏(ヴラド・イヴァノフ )と会う。彼は石のように無表情な顔をした違法の中絶医師であり、自分の注文どおりにことが運んでいないことに苛立っている。
大学の寮から、オティリアはガビツァが部屋を予約しておいたホテルへと向かう。しかし、不親切なホテルのフロントは、予約など入っていないと言い張り、オティリアは他の場所を探さなくてはならない羽目になる。ようやくその場所を見つけ、彼女は待ち合わせの場所に行き、べべ氏(ヴラド・イヴァノフ )と会う。彼は石のように無表情な顔をした違法の中絶医師であり、自分の注文どおりにことが運んでいないことに苛立っている。
威圧的な医師の要求に屈してしまう無力な女性2人
べべ氏は、ただただ威張り散らすだけの人物であり、他人を批判することで口答えしようとする者を押さえつける。ガビツァの妊娠が、聞いていた月数よりも進んでいることを見つけ出した彼は、法外な報酬を要求してくる。報酬は金銭だけに留まらず、彼が手術を進める前に、双方の女性から性的な奉仕をむしりとろうとするのであった。彼女たちはうろたえ、何とかそれを避けようとするが、結局のところ、彼の要求に屈服するのである。
その暴行行為を早々と済ませると、べべ氏は、医者として配慮の行き届いたような態度をとり始め、中絶手術を始める。ここでカメラは定点に据え置かれ、長回しの撮影が行われる。映し出されるのは、横たわったガビツァの姿。膝を高く上げ、広げられた足がワイドスクリーンいっぱいに伸びる。ムンジウの見事な才能なのだろう、不安感のレベルが徐々に引き上げられていく中、控えめな表現はしっかりと保たれている。カメラと登場人物の間にある信頼感、ムンジウのカメラに映る女性たちに対する尊敬の念は、けっして揺らぐことがない。プローブを差し込み、液体を注入したべべ氏は、彼女たちに胎児が下りてきた後どうすべきかを告げると、その場を去っていく。
映画の中の時間がもっと早く過ぎて欲しいと期待している向きには、オティリアが仕方なくホテルを去り、ボーイフレンドの母親の誕生パーティーに出席しに出かけるシーンで、まだ画面が明るいまま、暗転しないことがちょっとした驚きとなるであろう。カメラは、他の客たちに挟まれるようにテーブルに座るオティリアを真ん中に置くように捉える。不安感は募り、彼女は渦巻くような感情がいまにも爆発しそうな感覚に襲われながら、それを静かに押さえ込んでいる。驚くべき演技を中心に添え、たっぷりと時間をかけたシーン。見事である。オティリアはできる限りのタイミングで、その場を逃げ出し、ホテルに、そしてガビツァの元に帰っていく。
その暴行行為を早々と済ませると、べべ氏は、医者として配慮の行き届いたような態度をとり始め、中絶手術を始める。ここでカメラは定点に据え置かれ、長回しの撮影が行われる。映し出されるのは、横たわったガビツァの姿。膝を高く上げ、広げられた足がワイドスクリーンいっぱいに伸びる。ムンジウの見事な才能なのだろう、不安感のレベルが徐々に引き上げられていく中、控えめな表現はしっかりと保たれている。カメラと登場人物の間にある信頼感、ムンジウのカメラに映る女性たちに対する尊敬の念は、けっして揺らぐことがない。プローブを差し込み、液体を注入したべべ氏は、彼女たちに胎児が下りてきた後どうすべきかを告げると、その場を去っていく。
映画の中の時間がもっと早く過ぎて欲しいと期待している向きには、オティリアが仕方なくホテルを去り、ボーイフレンドの母親の誕生パーティーに出席しに出かけるシーンで、まだ画面が明るいまま、暗転しないことがちょっとした驚きとなるであろう。カメラは、他の客たちに挟まれるようにテーブルに座るオティリアを真ん中に置くように捉える。不安感は募り、彼女は渦巻くような感情がいまにも爆発しそうな感覚に襲われながら、それを静かに押さえ込んでいる。驚くべき演技を中心に添え、たっぷりと時間をかけたシーン。見事である。オティリアはできる限りのタイミングで、その場を逃げ出し、ホテルに、そしてガビツァの元に帰っていく。
優れた演技とリアルな会話——そして観察力のあるカメラで奇跡的効果を生み出す
この作品は、あきらかに『ヴェラ・ドレイク』を模したものではないが、しかしそのマイク・リー の傑作とムンジウの登場人物に対する極度な集中力には、表面的な酷似点以上のものがある。この作品では、そぎ落とされ、より必要最低限に近い表現方法のスタイルをとっているが、構成の厳密性はごく自然に成し遂げられ、であるがゆえに、複雑さは実質的に視界からその姿を消している。重要であるものだけに慎重に焦点を当てながらも、ムンジウは、たったひとつだけミスを犯している。胎児の描写を長々としたことである……この描写だけが、映画の他の部分と著しくかけ離れ、ただ単に観客を驚かそうとしただけのもの。無駄である。
意外な驚きとなったことが数多くある本作品だが、その筆頭はなんと言っても、オティリアになりきってすばらしい演技を見せているマリンカの存在であろう。台本にあるセリフを自然でリアルな会話に生まれ変わらせたというだけでなく(それは、この映画のほかの素晴らしい役者たちも共通に持った資質である)、言葉を発することなく、心の内側で起こっている葛藤を表現する彼女の才能がすばらしいのである。ヴァシリウも、厳しい試練を乗り越えようと必死になる、恐怖に震える女性を演じて、同様にすばらしい。
撮影監督のムトゥ(彼は、本作のプロデューサーの一人でもある)も、『ラザレスク氏の最期』で見せた才能をいかんなく発揮し、観察力のあるカメラで奇跡的な効果を生み出すことに成功している。彼のカメラは、のぞき見的な感覚を観客に持たせることなく、必要な全てを捉えるのである。彼が切り取る空間は、たとえ野外であっても、閉塞感を持ち続ける。扉を開けても逃げ道はなく、突然得体の知れない音が鳴り響く夜には恐怖が満ち溢れる。色彩は全て抑えの利いたセメントのような灰色のトーンが使われ、旧ソ連圏、東欧での生活の圧倒的な醜さを表している。
意外な驚きとなったことが数多くある本作品だが、その筆頭はなんと言っても、オティリアになりきってすばらしい演技を見せているマリンカの存在であろう。台本にあるセリフを自然でリアルな会話に生まれ変わらせたというだけでなく(それは、この映画のほかの素晴らしい役者たちも共通に持った資質である)、言葉を発することなく、心の内側で起こっている葛藤を表現する彼女の才能がすばらしいのである。ヴァシリウも、厳しい試練を乗り越えようと必死になる、恐怖に震える女性を演じて、同様にすばらしい。
撮影監督のムトゥ(彼は、本作のプロデューサーの一人でもある)も、『ラザレスク氏の最期』で見せた才能をいかんなく発揮し、観察力のあるカメラで奇跡的な効果を生み出すことに成功している。彼のカメラは、のぞき見的な感覚を観客に持たせることなく、必要な全てを捉えるのである。彼が切り取る空間は、たとえ野外であっても、閉塞感を持ち続ける。扉を開けても逃げ道はなく、突然得体の知れない音が鳴り響く夜には恐怖が満ち溢れる。色彩は全て抑えの利いたセメントのような灰色のトーンが使われ、旧ソ連圏、東欧での生活の圧倒的な醜さを表している。

































